私は、1945(昭和20)年8月9日に長崎で被爆した。魔の11時2分である。
家族の中で母と私は、爆心地から1500メートル地点で場所を異にして被爆し、私が最も重傷を負った。家族は、皆心身ともに傷を負ったものの幸運にも全員命拾いした。しかし現在は、長崎で同時に被爆した両親も姉も兄もこの世にはいない。
一緒に遊んで被爆した友人の母親は、浦上川で洗濯中に被爆し、黒焦げの遺体が川で発見された。亡くなって10数年後に知った、年下の親友も3年後に帰らぬ人となった。友人の死を知った後、私は、8月9日11時2分に毎年黙祷を捧げている。被爆時、私は10歳だった。
子供心に「原爆はなぜ長崎に投下されたか?」という疑問を抱いた。
二度と起きてはならない原子爆弾の被害、米ソ両国の核開発はエスカレートし米ソの核競争は激化して、巨大な戦略兵器と言われる水素爆弾の実験へと進み、ビキニ環礁でのマグロ漁船「第五福竜丸」の被爆となった。
私は、大学を卒業して、自衛隊の幹部候補生学校を受験し、化学職種を選んだ。長崎の被爆者がなぜ自衛隊にと高校、大学の友人に質問を受けた。
被爆者だからこそ自衛隊に入隊し、被爆体験を糧に「対核防護」を我がライフワークとして取り組みたいと思った。
被曝70年を間近にして、10歳の時の鮮烈な体験記録をここに残して置きたいというのが今夏の私の課題である。
1 なぜ原爆が長崎に投下されたか
2 広島と長崎の被爆はどのように違うのか
3 私の被爆体験と後世に残したい教訓
4 日本における対核防護の勧め
以上について、高齢者となり、記憶を失う前に書き下ろすこととした。
第1章 なぜ原爆が長崎に投下されたか
1.投下までの背景
私が住んでいた長崎市は、昭和20年当初からご多分に漏れず警戒警報や空襲警報を発令される日が多くなってきた。ラジオからは、当時から佐世保軍港上空に敵機B29来襲、大村海軍航空隊上空をB29が飛行中との放送が流れており、長崎は、佐世保市や大村市に比較して空襲の頻度は、少なかったと記憶している。
その長崎がどうして原子爆弾の投下を受け被害にあったのか、当時から疑問に思えた。出口輝夫編著『原爆の話』を参考にした原子爆弾投下に至る経緯は、次の通りである。
(1)最初の核爆発
まず1945年7月16日早朝、米国のニューメキシコ州アラモゴードにおいて、世界最初の核爆発実験が行われ成功した。高さ30メートルの櫓の上にプルトニウムを詰めた筐体を据え、スイッチを押して爆発させたもので飛行機からの投下ではなかった。
(2)ボツダム会談、ボツダム宣言と日本の黙殺
連合国側は日本がポツダム宣言を受け入れないと見込んでいた節があり、宣言の前日の1945年7月25日に、原爆投下を急がないと日本に対する緊急性がなくなるため、米軍は投下命令をポツダム宣言の前日に下されていたとも言われている。
当時私は、子供心に一億総玉砕、竹やりをもって応戦する覚悟が国民の総意ではなかったかと思う。
2.原子爆弾の投下命令(「原爆の話」より)
(1)1945年7月25日、アメリカ陸軍省参謀本部指令としてトーマス・T・ハンディ参謀総長代理からカール・スパーツ戦略空軍司令官宛に下された命令の要旨は、下記のようなものであった。
ア、1945年8月3日以降、最初の特殊爆弾をもって攻撃目標の1つに目視爆撃を行うこと。
イ、目標は、広島・小倉・新潟・長崎とする。
ウ、爆発効果の観測及び記録を行うこと。その為観測機を随行させること。
エ、準備が完了次第、第2弾を投下すること。
オ、当兵器の使用に関する情報は、陸軍長官及び大統領以外には漏らさない。
カ、ニュース記事は、すべて陸軍省の特別検閲を受けること。
キ、マッカーサー元帥及びニミッツ提督への情報は手渡すこと。
さらに、「マンハッタン計画」実施責任者グローブス将軍(1942年9月23日大佐から准将に昇任)からカール・スパーツ戦略空軍司令官宛の内容は、もう少し具体的であったと言われている。
●第20航空軍第509混成群団部隊は、8月3日以降、なるべく早く天候の状況を見て次の目標のうち1つに対して特殊爆弾第1号を投下すること。
目標地は、広島・小倉・新潟・長崎とする。
●追加の爆弾は、準備ができ次第、これを前記目標に投下すること。前記4都市以外の目標については、別に指示する。
目視投下が厳命されたのは、非常に高価な爆弾であり、原子爆弾攻撃の効果を正確に評価するためには目標から外れてはならないからであった。
(2)目標地の変遷
ア、1945年5月12日:京都・広島・横浜・小倉
イ、1945年5月28日:京都・広島・新潟(横浜と小倉は外される)
ウ、1945年7月21日:京都・広島・小倉・新潟
エ、1945年7月21日:原子爆弾以外の通常型爆弾および焼夷弾による攻撃目標は、人口順に180の都市がリストアップされ、作戦上東京の皇居と京都は除外。横浜・神戸・川崎・名古屋・東京・大阪・尼崎と北方の17都市は、硫黄島の基地が使えるようになるまで除外された。また夜間および悪天候下の爆撃禁止は15都市であり、長崎もこれに属していた。
オ、1945年7月22日:広島・小倉・長崎・新潟と決定し、京都が目標から外された。
(3)長崎が原爆投下目標地に選ばれた理由
長崎が原爆投下目標に選ばれたのは、戦艦「大和」と同型の「武蔵」を造った三菱造船所があったこと、ハワイの真珠湾攻撃時に使用された「魚雷」を造った三菱兵器製作所(兄が学生の身で勤労奉仕場所:後述)があったことなどと言われている。
市街の大きさは、南北6キロ、東西6キロで、街並みはヒトデのような形に伸び、人口は25万3000人と原爆目標地としては、広島・小倉と比べて規模が貧弱で、捕虜収容所があったために第3目標となったと言われている。
長崎は、細長くて2つの山の間にあり、爆弾の効果が十分に発揮されないうえにこれまで原爆投下以前に5回の空襲を経験し、延べ136機の爆撃により総計270トンの高性能爆弾と53トンの焼夷弾、20トンの破裂弾が投下されている。
グローブス将軍は、原爆投下には不適と反対したが、スチームソン陸軍長官は「これは政治的判断である」と言明し、長崎を目標地に進言したのは、米陸軍航空部隊司令長官のヘンリー・H・アーノルドだったと言われている。
(4)1945年8月6日ついに広島に原子爆弾投下
広島は、8月3日前後から5日まで悪天候のため投下は順延され、8月5日、B29型爆撃機「エノラ・ゲイ」へ原爆の搭載が完了した。
8月6日、気象偵察機3機が原子爆弾搭載機より先行して離陸して行った。広島へはクロード・イーザリー機長の「ストレート・フラッシュ」機、小倉へは、ジョン・ウイルソン機長の「ジャピット三世」機、長崎へはラルフ・テイラー機長の「フルハウス」機だった。
1時間遅れて原子爆弾を搭載した第509混成群団の指揮官ポール・W・テイベッツの「エノラ・ゲイ」機、随行するラジオ・ゾンデ搭載機には、指揮官補佐のチャールズ・W・スウィーニー機長「グレート・アーチスト」機、写真撮影機はジョージ・マクオート機長の「ネセサリー・イーグル」機だった。
ラジオ・ゾンデ搭載機にはルイス・アルバレッ、ローレンス・ジョンソン、ハロルド・アグニューの3人の科学者が同乗していた。ラジオ・ゾンデから発する信号をキャッチして解読し、その威力を測定するためだった。
民間人を戦闘する飛行機に乗せることは「ジュネーブ条約」に違反するので、便宜上の処置として将校に任命していた。
なお、万一の支障に備えて、チャールズ・マクナイト機長の「ビック・ステング」機が硫黄島で待機していたという。
広島へ先行した気象観測機から、「晴天、雲量は低空、中空および1万5000フイート(4575めーとる)共に10分の2」と報告があり、攻撃部隊は広島へ向かった。
2機は突然分散し、先頭の「エノラ・ゲイ」機は、左へ、後続の「グレ-ト・アーチスト」機は、右へ急降下急旋回し、同時に3個のパラシュートを投下し、島病院上空567メートルでさく裂した。 8月6日8時15分であった(これまで出口輝夫氏の「原爆の話」を参考にした)。
長崎の原子爆弾の投下については、第3章の被爆体験として後述する。