第3章 私の被爆体験と後世に残したい教訓

1.長崎での被爆体験

 当時私は、10歳で西浦上国民学校(長崎師範代用付属)5年生であった。家族構成は、両親と兄姉と私5人家族で、本原町(爆心から1500メートルの地点)に住んでいた。

 広島から3日後の1945年8月9日午前11時2分、長崎に「原子爆弾」が、投下された。広島と同じく、テニアン島から発進したB29ボックスカー(機長・スイニー)と観測機の2機の編隊は、午前9時50分頃第1目標の北九州工業地帯の小倉上空に到着した。

 しかし暗雲が覆い投下できないまま約10分旋回し、航空燃料もテニアン島飛行場までの帰路を考え、第2目標の長崎に向かった。

 しかし、長崎上空も雲に覆われ、第1目標の三菱重工長崎造船所でなくレーダ爆撃寸前に雲の切れ目を見出し、第2目標の三菱重工長崎兵器工場に投下した。魔の午前11時2分、私は、上級生の友人宅の縁側で被爆した。

 当時長崎地方は、佐世保の海軍軍港と大村の兵器廠や海軍の航空廠および陸軍第46歩兵連隊などの軍事施設を目標としてB29が飛来し「空襲警報」が発令され、爆弾投下のラジオニユースが流れていた。

 当時の長崎市は、ほとんんど「警戒警報発令」程度であった。私の学校は、夏休みであったが、その日から午後3時に登校となっていた。

 私は、隣の友人と共に自宅から約200メートル離れた上級生の家(浦上川を挟んで攻撃目標とされた三菱重工の長崎兵器工場が見える)の縁側で遊んでいた。低空飛行の友軍機と思わせる爆音で空を見上げようとした瞬間、私は、前後不覚、目の前が一面「真黄色」で何も見えない状態(閃光盲目)が続いた。

 死ぬときはこんな感覚かと思ううち、時間にしてどれくらいだったか、視界が開け、生を実感した。気がついた時は、縁側から飛ばされ5~6メートル先の散乱した畳の下にいた。畳の下から友人の妹たちの泣き叫ぶ声を聞き、上級生の友人と救助してその場の6人は、全員助かった。

(のちに判明した上級生の友人の母親は、浦上川で洗濯中、爆心地=GZ、グランドゼロから1500メートルで我々と同一距離] に被爆し、熱線と爆風を直接受けて即死状態で川の中で発見された)

 原子爆弾の爆発点は、松山町の交差点南東90メートルの地点の上空503±10メートルのであった。「ファットマン」と呼ばれる原爆は、図4で示した「プルトニウム239」を使用した爆弾である。

 広島・長崎ともに20Kt(キロトン)のノミナル原爆と言われているが、1976年にデータ解析し見直した結果、長崎(出力22±2Kt)の原爆は、広島(出力12.5±1Kt)に投下された「リトルボーイ」より破壊力において、さらに強く、爆風の圧力(衝撃波)の速度は、2倍もの速さであった。

長崎の原爆(投下数分後米軍機撮影

 放射能も広島の約2倍、約250Gy(グレイ)(旧単位=2万5000rad(ラド)]と修正記録された。被爆時にともに行動した隣の友人は、3年後放射線障害で返らぬ人となった。

 長崎の被害は、浦上川の地域が大きく、もう一方の県や市の行政の建物がある中島川一帯は、山を隔てていたために大きな被害から免れた。

 長崎市の特徴は、地形がすり鉢状になっており、いくつかのなだらかな丘陵が延びている。長崎港は、深度が深く港湾に適し、三菱長崎造船所を有する。従って長崎市の家屋の被害は、全体の40%程度にとどまった。

 ほとんんど全壊した浦上川周辺は、長崎湾から川沿いに重要な造船・兵器工場、そして長崎医科大学・付属病院などのほか長崎の象徴である浦上天主堂があった。

 爆心地から半径200メートルの地域は、地上も防空壕にいた者も全員即死であった。私がいた1500メートルの地点から我が家への帰路に見た光景は、砂塵が空を覆い薄暗く、三菱重工長崎兵器工場のあちこちから火の手が上がっていた。

 同様に中島川の両岸付近も火災が起き、次第に延焼して、長崎駅や県庁も類焼した。2~3時間後に我が家の布団や枯れ木の幹から煙が出ていると通りがかりの人に教えられ、消し止め、熱線効果もこの目で見た。

 家族の被爆時の付近の被害状況は、次の通りである。

ア 父:長崎県庁(外浦町、GZから南約3500メートル)に勤務し、被爆時机の下に避難、窓ガラスの散乱程度であった。 レンガ壁木造2階建青銅葺、他に木造2階建ての別館があった。火災は原爆投下後1時間以上を経過した午後12時30分頃本館頂上のドームから発生した。県庁の火災は、高台から中島川の西側一帯を類焼し、長崎地方裁判所ほかほとんどの官公庁舎を消失した。

家族の被爆地点

イ 姉:国鉄浦上駅(岩川町、GZから南約1000メートル)に近い三菱長崎製綱所に勤務していたが、その日社用で諏訪神社付近の電車中で被爆した。

 勤務地周辺は、軍需物資の積込駅、駅舎は全壊、全焼、構内の柱やガラスなどは、あめ状に溶けた。

ウ 兄:長崎師範学校の学生で、勤労報国隊の一員として三菱長崎重工兵器製作所大橋工場(大橋町、GZから北約600メートル)に奉仕していた。工場建物外GZ反対側で休憩中に被爆、背中を負傷した。被爆後状況は、次項で詳述する。

エ 母:自宅(本原町、GZから北北西約1500メートル)から約300メートルのGZから約1200メートル付近の畑仕事をしており、20分前に用件のため、帰宅し建物内で被爆した。投下が20分早ければ全身火傷で即死であったと思われ九死に一生を得た。一階天井が落ち、頭部に軽い負傷で血を流していたが、軽症であり幸運であっった。

 長崎に投下されるまでのB29爆撃機の航跡は、下図の通りである。

テニアン空港-小倉-長崎-沖縄 侵入経路と離脱経路(沖縄)

2.爆風・熱線・放射線の効果

 被爆した私の体験の第1は、爆風によって5~6メートル飛ばされたこと。第2は、「ピカドン」の瞬間、目の前の視界が「真黄色」という「閃光盲目」を体験したことである。第3は、その時、気づいていなかった放射線による負傷で治癒が長引いたことである。

 隣の友人は額から血を流し大きなこぶを作り、その様子に笑っていた私は、左腕と右足に大きな傷を負い、背中一面大小無数の傷でザラザラした感じだった。この友人は放射能症のため3年後に亡くなった。

 ちょうど夏の真っ盛りで半袖開襟シャツに半ズボンというラフな服装で負傷しやすい条件が整っており、背中のザラザラ感は、血が凝固していたからであったと振り返っている。我が家に隣の友人と帰り着いた時、母は、頭から血を流し門前で私を出迎えてくれた。

 私は、原爆の3大効果(爆風・熱線・放射線)の爆風と熱線、すなわち、爆風による負傷と閃光盲目という熱線の体験をした。直射の熱線に曝されなかったのは縁側の壁に遮蔽されたためである。熱線は、表在性で皮膚の深部までには及ばないのが特徴である。

 父は、浦上駅周辺を見下ろす山越えをし、傷だらけで山の手に避難する人々と遭遇しながら夕方帰宅した。父は帰宅直後、この惨憺たる被害の状況から、姉の会社付近が被害を受けた中心地のようであり、生きてはいないだろうと母に話していた。

 その姉は、諏訪神社の鳥居の付近で途方にくれていたところ、全く偶然に長与(浦上から3駅目)の叔父に出会い父と同じ道であったろうと思われる帰路を辿り、父より2時間くらい遅く帰ってきた。

 兄は、我が家から見える距離なのに帰って来ず、駄目なのかと話し合っているところに夜の帳も下りた頃に元気な姿を見せ、一家全員無事を喜び合った。

被爆直前の様子
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 その夜から4軒の家族共同防空壕での避難生活が始まり、その中で私が一番重傷であり、眠ってはいけないと起こされながら一夜を過ごした。隣の友人の父親は、三菱重工長崎兵器工場の重役さんで帰宅されなかった(消息不明のまま1週間後ある病院に収容されていたが亡くなった)。

 その夜、防空壕の入り口から見える長崎の中心部の方向は、一晩中真っ赤であった。後に分かったことであるが、その夜もまた、たたみかけるように長崎の中心部に焼夷弾の夜間攻撃がなされたと言われていた。

被爆の瞬間
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 この防空壕生活がどれくらい続いたか、被災者へ、砂糖・塩・毛布・敷物等の救援物資が配給され、その都度最も元気な兄が2~3kキロ周辺を歩き回っていた。

 救援活動など、非常事態の体制がとられたのは、3日後だったろうか、私の住まいから直距離で500メートルほどの両サイドに防空壕がある堀切道路に大村の海軍病院から前線の応急救護所が開設され、私の傷の治療が始まった。

 この救護所には、火傷で皮膚は焼けただれて全身を包帯に巻かれ、水をくれ、痛い痛いと喚き散らす人がいた惨状をこの目で見た。約8割の人が熱線による火傷患者であったと思われた。役馬も被爆し飼主がいたか分からぬまま小川の傍で4~5日後に倒れてしまった。

被爆直後
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 放射線の影響と思われる私の傷口は、化膿して、なかなか治癒しなかった。

 また、兄の背中の傷も悪化しているように見受けられた。被爆した翌日には、お隣の長崎師範の先生が、この爆弾は、広島に投下されたものと同じの「新型爆弾」で、100年は、草木も生えないと言われているなどの情報を聞かされたことを今も覚えている。

 100年の草木は科学的根拠のない噂に過ぎなかったが、不確実な情報により住民は、パニックに陥っていたと言える。

人宅からの帰路
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 被爆から1週間後、このままここにはとどまれないと判断した父は、家族全員を連れて、勤めの関係で「伊木力農業協同組合」の2階にとりあえず疎開した。

 私と兄の傷も治らず父に連れられ、大村の海軍病院に診断・治療に行った。やがて兄は、背中の傷が元で、高熱、全身紫色の発疹、頭髪も抜け、歯茎からの出血など、典型的な「放射能症」の症状が出た。

 米国帰りのご近所の家からの氷(冷蔵庫)の提供を受けて熱は下り、母は、栄養のある食事に気を配り、どこから聞きつけるのやらいろいろな「漢方薬」を私も含めて飲ませてくれた。

 その薬の苦さや口の中を針でつくような痛さを今も鮮明に覚えている。兄は、生きようという意欲で藁を掴む思いであったのだろうか、私は吐き出したりしたが、ものともせず飲干していた。

 また昼夜を問わず近所の町のお医者さんも献身的に治療に当たってくれたが、ついに医者の能力を超えたと見放された。両親はじめ家族は、諦めかけた。しかし兄は、周囲の期待を裏切ることなく一命を取り止めた。また、原爆は男性の生殖器までも蝕むと言われているが、一男一女の父親となり、郷土の小学校の校長で定年を迎えた。

3 後世に残したい教訓

 私は、長崎に投下された原子爆弾の被爆から多くの教訓を得た。

長崎の爆心地から2.5キロ地点での竪穴防空壕で助かった女性(原爆写真「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ」から)
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 その1は、核爆発の3効果、すなわち爆風、熱線および放射線(初期、残留放射線)の威力は、爆風50%,熱線35%,初期放射線5%,残留放射線10%の威力であり、そのうち私は、爆風にはもろに飛ばされたが、熱線と放射線には背後の縁側の壁に助けられ遮蔽の重要性を体得した。地下壕などの重要性(右の図参照)

(EMP効果は、広島・長崎の被爆時にはいまだ不明であった。水爆実験後判明)

 その2は、被爆後の帰路に見た爆風により舞い上がる砂塵は、死の灰となり、放射性降下物(フォールアウト)の実態であった。降りかかる灰は、振り払わなければならない。

 その3は、警報と情報に敏感であれ。私の記憶では空襲でなく、警戒警報であった。侮ってはならない。また、隣の師範学校の先生は、被爆直後に3日前の広島と同じ「新型爆弾」であると言われており、情報の重要性を認識した。

 その4は、父と姉は時間を異にした。帰路は、リスクを避ける選択、すなわち、眼下の被爆市街を避けて山越えの経路、避難と迂回の経路を選んだ。「急がば回れ」。

 その5は、兄の発病によって、砂糖、塩、毛布などの配給品を運んでもらったが、そのため残留放射線の被害にあった。私は、備蓄の必要性(2週間分の食料品と水)を感じた。「備えあれば憂いなし」。

 その6は、私と友人は、帰路に枯れ木の切株から煙が出ているのを見た。また、自宅に干されたベランダの布団から煙が出ていることを通りがかりの人が教えてくれた。熱線の威力を知り、火災予防と初期消火の重要性を認識した。「火の用心」。

 その7は、放射線の影響もあり、手足や背中の傷は中々治癒しなかった。応急手当や、家庭看護法やパニック防止の気構え、「病は気で勝つ」。

 その8は、防空壕生活で排泄物の処理および緊急清浄法が必要と考える。「臭い物には蓋」。

 その9は、放射性塵埃、すなわち、汚染降下物を振り払い、洗い流し、ビニール袋などで遮蔽する。放射線防護の3原則は、「遮蔽」し、「距離」を取り「時間」を短くすることである。

 その10は、個人も家族も防護の計画を常に考えておくことが、重要であり、私は、長崎での被爆体験と現代社会での事件や事故から自助努力の基本は、3分間息ができれば助かると確信している。