「ビールに枝豆」の組み合わせはいつから始まったのか

“おつまみの王者”枝豆の歴史といま(前篇)

2014.06.13(Fri)漆原 次郎

 伝統的な食材の多くは、平安時代中期の律令の施行細則「延喜式」に記載されているものだ。枝豆らしき食材も「延喜式」に見ることができる。朝廷の食膳を管理する「内膳司(ないぜんし)」からの生産物に「生大豆六把」の記述がある。「束ねる」ことを意味する「把」の単位が使われているところから、枝付きの枝豆が収められていたと考えられる。

 江戸時代になると、1697年に刊行された食用・医用の植物図鑑『本朝食鑑』に、「夏大豆」や「秋大豆」が記載された。

 <夏大豆は三月の未、種をおろし、七月実を采(と)る。秋大豆は五月初め種をおろし、八、九月実を采る>

 旧暦なので、夏大豆は現在の4月末頃に種をまいて8月に収穫、秋大豆では6月初旬にまいて9月や10月に収穫といったところだろう。若いとき摘んで蔬菜にすることや、その味は甘美であることなども記されている。江戸時代には、枝豆栽培は定着していたようだ。

茹でた枝豆を売り歩く「枝豆売り」が登場

 「枝豆」という呼び方も江戸時代に現れた。

 江戸後期の風俗史家だった喜田川守貞(1810~没年不詳)の『守貞謾稿』によると、江戸では枝を付けたままで売られていたため「枝豆」と言われたという。枝豆には「枝付き豆」や「枝なり豆」という呼び方もあった。

 一方で、京都や大坂では、枝を取り除くものの、莢を付けたままではあったため「さやまめ」と言われた。

 狂歌師だった大田南畝(1749~1823)が1818(文化15)年に著した『奴師労之(やっこだこ)』には、「夏の頃、枝豆をありきながら喰うは明和の頃三ツまたに築出しの新地出来し時よりなり」とある。「三ツまた」は隅田川にかかる新大橋の下流の「大橋三股」とよばれる中州のこと。1771(明和8)年頃のこととされる。

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