集団的自衛権は、国連憲章第51条でも、日米安保条約第5条でも、認められている。しかし、従来の政府解釈では、わが国は集団的自衛権を有しているが、「憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限に止まるべきものであり、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されない」との解釈がなされてきた。
いま政治の場では、集団的自衛権の行使を容認すべきか否かをめぐって、議論が行われている。しかし、これまでの政府解釈をめぐる法律論議は伝えられても、日本をめぐる米中間の軍事的なバランス・オブ・パワーの激変を踏まえた戦略論の視点からの議論は聞かれない。
1 戦略論の視点から見た集団的自衛権行使をめぐる議論の奇異さ
一部には、憲法が改正された後でなければ、集団的自衛権行使は認められないとする議論もある。しかし、このような議論は、戦略的な視点から見れば、意味のない議論である。
なぜなら、日本の憲法が改正されていようといまいと、侵略国は、日本が弱体で、かつ同盟国の来援も期待できないと判断し、勝てると見れば攻めてくるからである。侵略国にとっては、日本の憲法が改正されていようといまいと、その侵略意図に影響はない。
侵略国にとっては、日本が集団的自衛権の行使を認めず、同盟国と分断され孤立状態にある方が、好都合であることは歴然としている。侵略国としては、日本をまず侵略して占領し、日本の国力を自国の統制下で戦力化し、次の別の国に対する侵略企図の実現に取り組めるからである。このような戦略を、軍事的には「各個撃破」という。
「集団的自衛権」とは、あくまでも「自衛権」であって、集団的自衛は基本的に、弱小国がとる戦略である。集団的自衛という戦略の目的は、侵略企図を持った大国からそれぞれが逐次に「各個撃破」を受けるのを抑止あるいは阻止することにほかならない。
すなわち、大国の侵略の脅威に対し、弱小国が同盟関係を形成し互いに協力することによって、バランス・オブ・パワーを均衡させて侵略を抑止し、万一侵略を受けた場合は、ともに戦うことによって侵略をより少ないコストで阻止、撃退できるという大きなメリットが得られることに、その戦略的な意義がある。
したがって、集団的自衛権を行使すべきか否かは、戦略理論上は、侵略の可能性のある潜在敵対国と、自国と同盟国の戦力を併せた戦力との、相対比較を行うことにより、判断しなければならないはずである。
すなわち、自国のみでは潜在敵対国の侵略を阻止できないが、同盟国の来援戦力と合計すれば、潜在敵対国の戦力を凌駕し、有効に侵略を阻止できると判断される場合に、行使すべきであると判断されることになる。
また、同盟国の来援戦力と自国の戦力を合わせても、潜在敵対国の戦力に及ばなければ、抑止効果は働かない。抑止効果を確実に働かせるには、
(1)自国の戦力を強化する
(2)同盟国の戦力強化を支援する
(3)新たな同盟国を創る
という3つの対応策をできる限り併用しながら、バランス・オブ・パワーの回復を図らなければならない。
また、もしも自国の戦力が既に劣勢にあると見るのであれば、いつ侵略が誘発されるかもしれないことから、できるだけ早く集団的自衛権の行使容認に踏み切らなければならないはずである。