本流トヨタ方式の土台にある哲学」について、「(その1)人間性尊重」「(その2)諸行無常」「(その3)共存共栄」「(その4)現地現物」という4項目に分けて説明しています。
企業を取り巻く利害関係者との関係を表す「(その3)共存共栄」は、本流トヨタ方式の根幹とも言える考え方であり、行動規範でもあります。
前回まで、企業が第2優先に取り組むべき関連企業との関係について話をしてきました。今回は、1980年前後のトヨタ自動車の状況と、トヨタが初めて豊田地区から約80キロ離れた田原町に工場を建てた時の状況を2回に分けて、製造課長だった筆者の目からお話しします。
トヨタが豊田地区内でつくりあげていた自動車生産クラスター
まず田原工場建設に至るまでのトヨタの工場建設の歴史を振り返ってみましょう。
トヨタは50年の再建から朝鮮特需などにも助けられ、順調に業績を伸ばしてきました。59年には日本で初めての乗用車専門工場として元町工場(約7000人規模)を立ち上げ、「クラウン」「コロナ」を世に送り出しました。
66年には大衆車専用工場として高岡工場(約6000人規模)を立ち上げました。ピーク時には高岡工場だけで「カローラ」等を月産6万台も生産しました。
70年には最後の乗用車専門工場のつもりで堤工場(約6000人規模)を立ち上げ、「セリカ」「カリーナ」というスペシャルカーを世に送り出しました。
このような工場建設を経てトヨタは成長していきます。年間生産台数から見ますと、元町工場が稼働した60年が15万5000台であったものが、堤工場が本格稼働した73年には230万台にもなり、14年間で15倍近くにまで生産が増えたのでした。
74年時点で見ますと、豊田市周辺にはすでに機械工場や粗型材工場を含めると8カ所の工場があり、ほとんどの協力メーカーも20キロも離れない場所に密集していました。まさに自動車生産のクラスターが出来上がっていました。
そのクラスターの内部は、「かんばん」でつながっていました。お客様から自動車の注文を受けると、注文を平準化して翌日の生産計画に乗せ、自動車を組み始め、着工から3日以内に完成し、販売店に発送するという仕組みができていました。
組立で部品を使うと「かんばん」が外れ、その外れた「かんばん」は注文伝票に早変わりしてその部品生産現場に届けられ、かんばんに対応した部品に再び付けられて、数時間後に組立工場に納入されるという、いわゆる「かんばん方式」でつながれていたのでした。
さらにその部品の生産をするに当たっては、その部品の材料や組み付け部品もさらに上流工程とかんばんでつながり、材料もその上流工程とかんばんでつながるという、生産体系が出来上がっていたのです(大野耐一氏はこの「PULLシステム」の構築を見届け、後を若手の楠兼敬氏に託し、78年に定年退職しました)。
工場に併設された港の大きなメリット
73年の石油ショックで一時的に市場は伸び悩みましたが、76年頃から、特に米国で「日本車は品質もよく燃費もよい」と人気を得て売れ始めました。