「食の正論」で家庭は崩壊~超現実的食育のススメ~

味の社会学(第1回)

2013.08.20(Tue)菅 慎太郎

 時に、健康的な影響を煽るソーシャルの書き込みも散見されるが、急性の問題も発生せず、ADI(1日許容摂取量)(※)も設定された日本の環境で語られる多くは、「分からない」「見えない」ことへの「感情的批判」に過ぎない。ネットだけの現場を知らない批判を、プロの立場の人間が正していくことも、親の不安を取り除く上では重要であろう。

※ ADI(1日許容摂取量):ある物質について人が生涯その物質を毎日摂取し続けたとしても、安全性に問題のない量として定められるもの。薬品や添加物の安全性基準の設定に用いられる。

 そして、「食育」は、「なに」を食べるか以上に「だれ」と「いつ」食べるが重要である。幼少期における「味覚」の獲得には、「視覚」による学習が大きな比率を占める。腐敗の象徴である「酸味」や薬の象徴である「苦味」を摂取できるようになるのは、お父さん、お母さんが「食べているもの」を見て興味が湧くからである。

 自分の幼少期を振り返ってほしい。父親だけに出された「酒の肴」が気になって仕方なく、手を出したけれど、苦くて、しょっぱくて、とてもマズかった記憶を。大人になったいまでは食べられるものが多数あることだろう。だからこそ、食育の本質は「一緒に作る、一緒に食べる」が必要条件であり、「何を食べるか」はその十分条件にすぎないのである。

「足していく」という育み方

 味噌汁を作る出汁(だし)も、顆粒や粉末、液体となったいま、料理の基本となる出汁は、「母の味」から「加工食品の味」へと変わりつつある。それでも構わない。盛り付けだけでもいい、合わせるだけでもいい。まずは「食」を通して子どもと触れ合い、共有する時間があればいい。

 「これおいしいね」「うん」という会話からで、「食育」のスタートラインは十分である。そういう時間が習慣化してくれば、もっと貪欲にあれこれ食べたくなったり、あるいは、手のかかる料理にチャレンジしたくもなるだろう。

 できることを足していく、そうした前向きな取り組みにこそ、「持続可能」な食育があり、争いや、イライラや、疲労感漂う家庭や育児に一筋の光が見えてくることだろう。

 「おいしい」味が「足す」や「かけ合わせる」からあるように、「加点主義」の発想が社会の最小単位である「家庭」にあるならば、その集合体が「社会」であり、「食」が果たす役割の大きさと可能性に期待をしたいと思うところである。

いかがでしたか?
JBpress をブックマークしましょう!
Twitterで @JBpress をフォローしましょう!
Facebookページ に「いいね」お願いします!

この連載記事のバックナンバー
トップページへ戻る