利巧になるための「バカの五段活用」というお話をしています。まあ、ややこじつけめいたと言うか、牽強付会とのご批判を受けそうなラインアップですが、一人称で「バカになる」ことで、より賢明な結果を得るというお話に続いて、前回は二人称を育て、チームとして一人称複数を賢くするという「第二段変格活用」を書きました。
では「第三段目」、今回は「感覚・意識・意味・判断力・常識」の「意味」をキーワードに三人称の「バカ」を考えたいのですが、どのような意味ある「バカ」が、新たな可能性を生み出すと考えられるでしょう・・・?
人をバカにすると人からバカにされる
三人称のバカ、ということを考えるうえで、一度視点をちょっと変えてみましょう。
いま、悪い意味で「人をバカにする」ということをしたとしましょう。見え見えの薄っぺらい発言で「バーカ」とか、誰かを誹謗中傷したとします。
そういう言動を取るとき、人は賢く見えるでしょうか・・・逆だと思うんですね。
「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」なんて言葉があります。人は中身が充実すればするほど、謙虚になって、傲慢な言動などはしなくなる、という諺ですが、こうした傾向は20~21世紀に入ってより著しくなってきていると思うのです。
なぜか?・・・メディアの変化が大きいことを挙げねばなりません。
いま「一人称」「二人称」という流れで「三人称」を考えるとき、新たなる「変格活用」で導入して考えたいのが「メディア」というわけです。
僕と君がここでやり取りしている、というリアルな時間空間での「バカ」「利巧」あるいは「人材育成」といったことを前回までお話ししたわけですが、とりわけ「マスメディア」を通じて流布してしまう情報は、1度流れたら回収は不可能で、まさに「覆水盆に帰らず」を地で行くものです。
例えば、インターネット上で発信した情報は、二度と回収することはできない・・・なんて書くと、なにか大げさなことのようにも思います。
しかし、実際には、私たちが例えばツイッターとかフェイスブックに書き込む小さなコメント・・・この一つひとつが、実は不特定多数の情報社会に対する「発信」であって、原理的には決して「回収」することのできない情報発信である、というのは、よく考え直してよいことのようにも思うのです。