僕らの専門では、前回も書いたように、たとえば池内友次郎のお弟子で矢代秋雄さんのように東京音楽学校で学んだ人もいるけれど、三善晃さんは東大仏文卒、別宮貞雄さんは東大理学部物理学科で40年ほど先輩に当たり、僕の師匠・松村禎三は旧制三高(京都大学教養部)理科と学校は様々です。
前回書いたカラヤンやバーンスタインのみならず、カルロス・クライバーも化学出身、日本に目を転じても朝比奈隆さんは京大法学部といった具合で、要するにどういう先生に学び、どういうキャリアを築いてき、いまどういう音楽ができるの? という、実質本位の世界で、肩書きは二の次に過ぎません。
そういう僕ら芸術の世界はそれとしてさておき、ここでは世の中一般の問題を考えてみます。
形骸化の極みにある日本の学歴社会
先ほどの受験に関するサンプルの文章もう1つ、こんなふうに変えて書いてみたらどうでしょう。もしも、
・・・東京大学に入りたい。そのためには東大のナントカ先生の個人レッスンを受けるのがいい。そのレッスン料は毎回いくらで、1カ月当たりこれくらいのお金がかかって・・・
なんてことがあったとしたら?
かれこれ13年ほど東京大学のスタッフをしてきて、断言しますが、仮にこんなことがあったら、まあ社会問題程度では済まないでしょう。
そのナントカ先生はもとより、ナントカ先生の所属する部局長も相当の処分を免れない。学長以下、執行部は減給程度では済まない可能性がある、大問題になるのは目に見えています・・・これが大学学部入試であれば。
いま最後に書いた「大学学部入試であれば」というのが、非常に重要なところです。
というのは、大学院であれば、上の事柄から金銭のやり取りを除いた範囲までは、極めて当たり前な現象で、どこでも誰でもやっていることにほかなりません。