尊敬するある上場企業の社長から最近、読んでおくといいよと教えてもらったのが本書、『最後のサムライ 山岡鐵舟』(教育評論社)だ。ちょうどNHKの大河ドラマ「篤姫」が江戸城・無血開城のくだりに差しかかったこともあり興味深く読んだ。
幕末のドラマでは、どうしても薩摩の西郷隆盛、土佐の坂本竜馬、長州の高杉晋作、徳川の勝海舟など、派手な主人公たちに目を奪われがちだ。しかし、世界でも珍しい大量虐殺をほとんど伴わないこの革命劇を成功に導いたのは、彼ら以外の、地味ながらも非常に高いレベルの精神修養を積んだ主人公が多数存在したことが大きい。
清河八郎に賛同するも組織が瓦解して剣と禅の修業に邁進
山岡鐵舟はその代表格の1人と呼んでいいだろう。武芸では千葉周作一門の北辰一刀流を学び後に一刀正伝無刀流の開祖となる。一方、禅の道を究め、書の達人でもあった。
鐵舟は初め、幕末のストーリーを最初に書いた庄内藩士・清河八郎の尊皇攘夷思想に賛同し、清河が結成した「虎尾の会」の発起人の1人となる。そして清河が画策した浪士組の取締役として歴史の表舞台に登場する。
しかし、浪士組が上洛後に空中分解して江戸に戻らされると浪士組の管理不行き届きの責任を負わされ謹慎の処分を受ける。その後しばらく歴史の表舞台からは消え、剣や禅の修行に励む。
再び鐵舟が歴史の表舞台に登場するのは、官軍による江戸城総攻撃を目の前にした慶応4年(1868年)3月9日。駿府(静岡市)に駐留していた官軍の東征軍司令部に単身乗り込み、東征軍参謀の西郷隆盛に徳川慶喜の助命嘆願を求めて直談判に及んでからだ。
この本に収められている鐵舟自身が書いた「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」によれば、この時、鐵舟は「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鐵太郎(鐵舟)、大総督府に行く!」と言い、駿府に赴いた。
西郷隆盛に直談判、江戸城総攻撃を回避する
そこで西郷と面談、東征軍による江戸城総攻撃回避の策をまとめ上げる。この「談判筆記」は次のように記している。
西郷氏は「先日静寛院宮(14代将軍家茂夫人の和宮)と天璋院殿(13代将軍家定夫人)の使者が来られ、慶喜殿の恭順謹慎の事情を訴えて嘆願されたのだが、ただ恐れ畏まるのみでいっこうに筋道が見えず、空しく戻っていかれることと相成りました。先生がここまで来られたおかげで江戸の事情もはっきりとわかり、おおいに都合のよろしいことでした。御趣旨を大総督宮に言上しますので、しばらくここに控えていてください」と言って宮のもとへ上がっていった。