孫権

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?

三国志演義では描き切れない、孫権の懐の深さ…

 呉の第2世代のリーダーとして、208年の赤壁の戦いで果敢な決断をして曹操の進撃を打破した孫権。小説である三国志演義では、蜀の劉備や諸葛亮らの活躍に隠れて、どちらかといえば脇役感が強い存在ですが、史実では大きく異なります。

 孫権は200年に、兄の孫策が戦死したことで呉の勢力を引き継ぎます。その時彼自身は若干19歳の若者であり、同年曹操は46歳、劉備は40歳とベテランの域に達していました。乱世の中国大陸を渡り歩いた英雄二人に対して一歩も引かない駆け引きを見せた青年君主孫権は、周囲にある人材、アイデアや機会を柔軟に活用した異才の人物だったのです。

 219年に、関羽が荊州で勢いを得ると、呉にとっても係争地だった荊州での蜀の地歩固めを嫌い、曹操側からの誘いで関羽の背後を突くことを決意。結果として関羽の敗死と、蜀が荊州の地を失うきっかけをつくりました。関羽の敗死に怒る劉備は221年に大軍で呉へ侵攻、しかし陸遜の火計によって翌222年の夏に、呉は蜀軍を撃退します(夷陵の戦い)。

 208年の赤壁の戦いでは曹操を、221年の夷陵の戦いでは劉備を大敗北させた孫権。20歳近く年の若い孫権に敗れた二人の英雄は、呉の若いリーダー孫権に底知れない力があることを思い知ったのではないでしょうか(212年にも曹操は大軍で呉に侵攻、孫権と呉は単独で撃退した)。