ちょうど70年前の1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻した。その2日後の9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、人類史上、最悪の犠牲が払われることになる第2次世界大戦が始まった。

 戦後、世界の国々は再び同じような悲劇を起こしてはならないと誓った。その時から、第2次世界大戦の原因を追究するのは世界の平和維持のための重要な課題となっている。

 旧ソ連は国土が戦場となり、約2000万人の命を失った。戦後、ロシアでも原因を追究する動きがあった。ただし、ロシアは戦勝国である。戦争に勝利したことが輝かしい歴史となってしまうのは、やむを得ない。そのため、ソ連時代に戦争に突入することになったいきさつを客観的に分析することができず、歴史の神話化が進んでしまっていた。

 ゴルバチョフの時代には情報公開政策によって多くの秘密資料が発表された。また91年の反共革命後にはスターリン主義への批判が活発に行われた。その動きによって、戦争による多大な犠牲は独裁者の誤った判断と間違った外交の結果だという説が一般的になってきた。

 その後、プーチン時代になって、国家権力を強化し、また、旧ソ連共和国の反露ムードを迎える政策が取られるようになった。それにつれて、スターリン主義への批判が薄れてきた。

 しかし、大戦勃発70周年を迎え、歴史についての論争がロシアで再燃した。

スターリンとヒトラーの秘密議定書を巡っての論争

 論争の焦点となったのは、戦争勃発直前の8月23日に結ばれた独ソ不可侵条約と、その条約に付随する秘密議定書である。

 その議定書にスターリンとヒトラーの密約が記されていたことが、戦後明らかになっている。ポーランドとバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)やルーマニアの一部を、ナチス陣営とソ連陣営に分割するという内容だった。

 8月24日、政府当局に近い公共放送局「第1チャンネル」は番組でこの密約を取り上げ、当時としてはやむを得ないものだったと弁護した。

 まず最初の理由として、ヒトラーに対する宥和政策を取ったのはフランス、英国の方が先であり、ソ連は最後だった。

 次に、39年8月上旬に、スターリンは「ヒトラーの侵略を牽制するために統一した行動を取ろう」とフランス、英国に呼びかけた。だが、フランス、英国は応じてくれなかった。もはや戦争に突入するのは避けることができないという中で、時間を稼いで戦争への準備をするために、不可侵条約を締結せざるを得なかった、というのである。

 確かに秘密議定書の内容には「道徳」上の問題がある。しかしこれも、自国の国境を西へ伸ばして、いつか攻めてくる敵との戦争を有利に進めることを考えていたからである。そもそも昔も今も大国が対立する場合、「道徳」を計算に入れることがあるのか大いに疑問である、という論調だった。

 これに対して、政権に批判的な放送局「エホー・モスクヴィ」は違う解釈を紹介していた。「時間を稼ぐ」ために中立条約を締結するのは間違っている。なぜなら、39年にヒトラーはソ連と戦争するつもりはなかったからである。戦後に明らかになった歴史資料の中にも、そういう事実はない。