「称賛」と「注文」と

 さらに言えば、米国内の議論は成績論だけでは終わらない。いま大谷は「果たしてMLB史上最高の選手なのか」という、選手として最も贅沢で最も残酷な問いの渦中にいる。

 投打で同時にトップレベルを維持すること自体が前例のない偉業であり、才能の次元では異論の余地が少ない――。そう持ち上げられる一方で、「『史上最高』を名乗るにはキャリアの長さや投手としての積み上げが必要だ」と冷静に線を引く声も出る。

 要するに「称賛」と「注文」が同居する段階に入ったということだ。ここで重要なのは、どちらの意見が正しいかではない。議論が活発化すればするほど、大谷は“結果だけで黙らせる領域”に押し込まれていくという構図のほうである。

 だからこそ今大会のWBCが「打者専念」であるにもかかわらず、投手として腕を止められない意味が浮かび上がる。大会で投げない――。それは負担を減らすための決断でありながら、同時に「投手としての時計」を止めないための別の負荷も呼び込む。

 合流後もブルペンやスローイング・プログラムを維持し、場合によっては実戦形式に近い強度まで段階を進める必要がある。スプリングトレーニングではすでに打者として実戦形式の打撃練習を重ね、調整の歯車は止まっていない。国際大会の緊張感の中で、その歯車に「投手の歯」を噛み合わせ直す――。そこに、WBCという舞台の厄介さが凝縮されている。

 結局、大谷はこの春、二つの時間を同時に生きることになる。侍ジャパンとしての「今勝つ時間」と、ドジャースで二刀流を完走するための「先に勝つ時間」。

 どちらかを選べば、もう片方が崩れかねない。選ばないために、両方を抱えたまま走る。外から見れば超人的に映るが、本人にとってはむしろ超人でいることを要求される“設計”そのものが試練なのだ。