横須賀に残る戦艦「陸奥」の主砲 撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
史上最大規模の海戦
1944年(昭和19)10月、フィリピンに大々的に侵攻してきた米軍に対し、日本の連合艦隊は総力を挙げた攻撃を試みたものの、10月20~25日にかけて起きたレイテ沖海戦で惨敗。この史上最大規模の海戦で戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦10隻、駆逐艦等多数を失った連合艦隊は以後、艦隊を組んで作戦することができなくなってしまった。
レイテ沖海戦以降に起きた海戦らしい海戦といえば、戦艦「大和」の沖縄出撃による坊ノ岬沖海戦(1945年4月7日)くらいなものだが、これとて「大和」と軽巡洋艦1隻、駆逐艦8隻というささやかな艦隊が、米軍機に袋叩きにされただけである。
呉の大和ミュージアムに隣接するデッキには「大和」の前甲板部分が実物大で表示されている
とはいえ、連合艦隊そのものが完全に消滅したわけではない。内地にはまだ、戦艦「榛名」「伊勢」「日向」、空母「隼鷹」をはじめとして巡洋艦・駆逐艦など相応数の艦艇が残っていたからだ。
しかし、それら残存艦艇の多くは瀬戸内海などに停泊したまま、練習艦を兼ねた防空砲台として使われた挙げ句、米軍機の空襲によって無力化されてゆくばかりだった。アニメ映画『この世界の片隅で』の後半で、擱座した巡洋艦「青葉」の無残な姿が描かれていたのを、ご記憶の方もあるだろう。
呉軍港空襲で大破着底した重巡洋艦「青葉」
これら残存艦艇がほとんど活動できなかった理由は、一般には燃料不足のためと説明されている。この説明は間違いではないが、正解でもない。どういうことかというと、燃料そのものはまだあったのだが、他の用途に使われていたのである。
大分県の日出(ひじ)城裏手に残る「海鷹(かいよう)」の碑。商船改造空母の「海鷹」は海上護衛総隊にも所属したが、別府湾に擱座した状態で敗戦を迎えた
「他の用途」とは、海上護衛戦のことだ。レイテ沖海戦ののち、海軍が持っていた燃料のほとんどは船団護衛用の小型艦に振り向けられていたので、戦艦・空母・巡洋艦に回す分がなくなったのである(空母に回したとしても、もう艦載機がなかったが)。
そもそも、1941年(昭和16)12月に日本が米英をはじめとした連合軍と戦端を開いたきっかけは、南方の資源地帯を確保するためであった。当然、南方から内地への資源輸送は海上航路によることになる。にもかかわらず、日本海軍は海上輸送路を確保するための具体的な手段、つまり護衛用の艦艇と戦術を、ほとんど持ち合わせていなかった。
開戦からしばらくの間は、それでも日本軍が優勢に戦いを進めて連合国側の海軍を押し込んでいたから、輸送船の損失も想定の範囲内で済んでいた。ところが、1942年(昭和17)の後半に入ると次第に日本側の優位は失われ、米潜水艦や航空機による輸送船の損失は目に見えて増えはじめた。
横浜港に保存されている「氷川丸」。民間の大型貨客船として就役した「氷川丸」も戦時中は病院船・輸送船などとして使われたが、奇跡的に生き残った
慌てた海軍は、敷設艦のような補助艦艇や旧式駆逐艦、掃海艇・駆潜艇・敷設艇・水雷艇といった小型艦艇など、使えそうな艦を片っ端から船団護衛に動員した。その一方で、船団護衛専用の小型艦である海防艦の大量建造に、ようやく本腰を入れることになった。欧米のフリゲイトやコルベットに相当する艦種である。
そうこうしている間にも、輸送船の損失はウナギ登りに増えていった。そこで1943年11月には、海軍の中に海上護衛総隊が設置され、海防艦をはじめとした護衛戦用の艦艇を統合的に運用する体制が整えられた。海上護衛総司令部の司令長官には連合艦隊司令長官と同格の大将を任じたから、組織の体裁上は海上護衛総隊は連合艦隊と同格になった形である。
実は、レイテ沖海戦のあった1944年(昭和19)10月は、こうして激化する海上護衛戦が山場に差しかかっている時期でもあった。史上最大の海戦の裏側で、大日本帝国の存亡を賭けた、もう一つの「海の天王山」ともいうべき戦いが地味に、しかし熾烈に進んでいたのだった。