「円山応挙―革新者から巨匠へ」展示風景。左から、伊藤若冲《竹鶴図屏風》寛政2年(1790)以前 個人蔵 円山応挙《梅鯉図屏風》天明7年(1787)個人蔵
(ライター、構成作家:川岸 徹)
江戸時代後期に活躍した絵師・円山応挙。多くの弟子に慕われ、円山四条派を形成した応挙の画業を、数々の重要作品を通して辿る特別展「円山応挙―革新者から巨匠へ」が東京・三井記念美術館で開幕した。
王道にして規範、円山応挙
18世紀の京都画壇を生きた二人の絵師、伊藤若冲と円山応挙。近年は若冲をはじめとした“奇想の画家”に注目が集まっているが、「近世日本絵画史における王道は、間違いなく円山応挙。応挙という規範があったからこそ、若冲のような奇想の画家が生まれたのです」と美術史家の山下裕二氏は話す。
そんな山下氏の「奇想の画家の人気が高い今こそ、応挙の価値を見直す展覧会を作りたい」との思いから企画された展覧会が「円山応挙―革新者から巨匠へ」だ。展覧会では全国各地の美術館・博物館の収蔵品や個人蔵の名品を集め、デビューから瞬く間に京都画壇を席巻し、その後巨匠として円山四条派を形成していく応挙の画業を展観している。
応挙と若冲はなぜ共作を?
名品揃いの出品作の中でも話題性という点では“若冲と応挙の合作屏風”が筆頭だろう。この合作屏風は今年6月に大阪中之島美術館で開催された「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」展で初公開された。今回が二度目の公開で、東京では初のお披露目になる。
では、二人の巨匠絵師はどのような事情で共演を果たすことになったのだろうか。18世紀後半、伊藤若冲(1716~1800年)と円山応挙(1733~1795年)は京都で人気を二分する人気絵師だった。京都在住の文化人・知識人を紹介する『平安人物志』安永4年(1775)版という書物には画家20人の名が記載され、応挙が1位、若冲が2位に挙げられている。
ちなみにこの書物には住所も記されており、若冲は「高倉錦小路上ル町」、応挙は「四条麩屋町東入ル町」に暮らしていた。その距離わずか300m程度。共通の知人はいたが、二人の交流は確認されていなかったという。
「当時、応挙も若冲もトップクラスの人気を誇っていましたから、多忙を極めていたはず。そんな二人をなんとか共演させてみたいと考えた依頼者がいたのでしょうね。私の推察では、その依頼者が金屏風を仕立てて、応挙と若冲に画題を指定して絵を描かせた。そうして出来上がったのが伊藤若冲《竹鶏図屏風》、円山応挙《梅鯉図屏風》という二曲一双の屏風です。それぞれの屏風は金箔の質がまったく同一で、金箔の箔足(継ぎ目)も一致しています」(山下氏)
こうして誕生した日本美術史を代表する二大絵師による合作屏風。それぞれの屏風の出来映えはいかに? 「応挙は王道を行く絵師であるため年齢が上だと思われがちですが、実は応挙は若冲より17歳年下。その遠慮があったのか、円山応挙の《梅鯉図屏風》はいくぶん控えめな描き方。ただし、現代の3D映像を見るような立体感があって、応挙の高い画力を堪能できます。それに対して、伊藤若冲は思い切り筆を揮っている。《竹鶏図屏風》からは、“まだまだ若い者には負けんぞ”という気迫が感じられます」(山下氏)
