萬斎さんとの出会いから10年、進化した羽生さん

 萬斎さんが長年の構想から舞踏音楽と狂言の発想を結びつけた独舞が「MANSAIボレロ」であるならば、フィギュアの世界においてもまた、「ボレロ」は特別な存在だった。1984年サラエボ五輪のアイスダンスで金メダルを獲得したジェーン・トービル、クリストファー・ディーン組(英国)が演じた「ボレロ」は、旧採点方式だった当時の芸術点で、ジャッジ全員が6点満点を付けた伝説のプログラムなのだ。

 羽生さんが「僕が使ったことのない曲で、フィギュアスケーターとしては、やはり伝説のアイスダンスの演技があるわけです。(今回の)振り付けをしてくださったシェイ(リーン・ボーン)も凄く難しいとはおっしゃっていた」と打ち明けた。

 被災地まで足を運んでくれた萬斎さんを前に、妥協は許されない。そこにいたのは、10年前に萬斎さんを前に「とてもとても畏れ多くて、ただひたすら緊張しているだけだった」と苦笑する羽生さんではない。

「今回は、僕自身もさまざまな経験を積んできて、プロとして活動をしてきたからこそ、ある意味で同じ高さの目線からものを言えるように、しっかりと気を張って、プロのスケーターとしてぶつかっていけるようにということを心がけながら、打ち合わせなどもさせていただきました」

 前半の最後を彩った満員の客席からのスタンディングオベーションが、萬斎さんと向き合って創り上げた演目に対する、これ以上ないリアクションだった。

「少しだけ打ち解けてくださった気がします」。安堵の表情をわずかに浮かべたものの、緊張の糸は全く切れた様子がない。

「萬斎さんの『ボレロ』として、僕らも色々な所作を入れて、この共演でしかできない『ボレロ』になったのではないかなという手応えはありました。(コラボレーションが)現実になってみると、まだまだ夢のようにふわふわした感覚では正直あるのですが。手応えとしては、少しでも萬斎さん、『野村萬斎という存在』を受け入れるに値するスケートやショーの構成に近づけたのかなというふうに思っています」

 羽生さんの気概は、萬斎さんの心にしっかりと届いていた。

「今までの経験などで、だんだんに殻が破れて、芽が出て、まさしく今、花開いているなと。成長されている姿というのを頼もしく思いました」

 囲み取材でこの言葉をメディアの質問者から伝え聞いた羽生さんは「まだ、ほど遠いので、精進いたします」と高い志と飽くなき向上心を言葉に込めた。

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田中 充(たなか・みつる) 尚美学園大学スポーツマネジメント学部准教授
1978年京都府生まれ。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程を修了。産経新聞社を経て現職。専門はスポーツメディア論。プロ野球や米大リーグ、フィギュアスケートなどを取材し、子どもたちのスポーツ環境に関する報道もライフワーク。著書に「羽生結弦の肖像」(山と渓谷社)、共著に「スポーツをしない子どもたち」(扶桑社新書)など。