火祭りが続く理由

さて、実際に日牟禮八幡宮にお参りしてみよう。JRの近江八幡駅からバスか徒歩で八幡堀へ。ここに白雲館という擬洋風の素敵な建物がある。明治時代に建てられた小学校で、現在は観光案内所となっているので、マップや資料を入手してから神社に向かおう。

最初の鳥居は、1616年に造営された珍しい木造の神明鳥居で滋賀県指定有形文化財である。八幡掘にかかる白雲橋を渡り、しばらく歩くと右手に日牟禮八幡宮の華麗な楼門がある。南北朝時代に造営されたものだが、火災で焼失し、江戸時代末期に再建。素晴らしい彫刻が施されているのでしっかり鑑賞しよう。

その門をくぐると右手に明治時代に建てられた能舞台がある。新築の際は、観世流がこの神社ゆかりの能楽「日觸詣(ひむれもうで)」を制作して演じた。正面に鎌倉時代に造営された拝殿があり、その奥が本殿である。こちらには譽田別尊(応神天皇)、息長足姫尊(応神天皇の母、神功皇后)、比賣神(宗像三女神)の八幡三神が祀られている。

中世から近代にかけて手広く商売を行った近江商人の守護神だけに、この神社の祭はたいへん大がかりで豪壮だ。とりわけ3月の左義長、4月の八幡祭が滋賀県を代表する2つの火祭りとしてよく知られている。ひとつの神社で日を置かずして大規模な祭りが続くのは不思議なことだが、それには深いわけがある。
もともとこの神社では4月の八幡祭のみが行われていた。左義長は中国から伝わった行事で、安土城下などで盛んに行われ、城主である織田信長も祭の踊りに参加していたという。信長の死後、豊臣秀次が八幡城を建て、山の麓に城下町を開いた。安土城下からこちらに移住してきた商人たちが、すでに行われていた八幡祭の壮麗さに驚き、それに対抗すべく自分たちの祭である左義長を行うようになった。3月と4月に大きな祭が続くのは、古くからの住人と新たな住人の競い合いに由来するのだ。

左義長は、毎年3月中旬の2日間(2025年は3月15日、16日)に行われる。まず各奉納町で、その年の干支にちなんだだしを作る。それぞれに趣向を凝らした立派なアート作品で、制作には2~3か月ほどかかるという。だしを飾る素材が小豆や大豆、昆布やスルメなど乾物の食物である点も商人の町らしくて面白い。
初日にはだしの引き回し、コンクールも行われる。2日目はだしをぶつけ合う「けんか」もあり、最後に火をつけて奉納する。この祭が終わると、湖国に春がやってくる。

そして1か月後、桜も咲き終えた4月14日~16日にもうひとつの火祭りの八幡祭が行われる。こちらは前述のように3月の左義長よりも歴史が古く、275年に応神天皇が現在の日牟禮八幡宮へ参詣した際に、琵琶湖岸の住人たちがヨシで松明を作り、火を灯して道案内をしたのが始まりとも伝わっている(諸説あり)。
初日はヨシと菜種ガラで作られた松明が奉火される。中には10mを超える巨大な松明もあり、火をつけて起こしていくさまなどが見どころとなる。2日目には大太鼓を担いで宮入をする。古くからある氏子の伝統を今に残す十二の郷(村落)の祭で、松明や太鼓はこの十二の郷ごとに奉納される。
神社周辺には、祭以外にも、まだまだ訪ねるべき場所がある。まずは参道をまっすぐ行ったところにあるロープウェイに乗って八幡山に登ってみよう。前述のように、八幡山山頂は、かつて「上の八幡宮」があった場所である。
その後豊臣秀次が八幡城を建てたが、自害させられて廃城となった。秀次の母親(秀吉の実姉)は亡き息子とその家族たちの菩提を弔うために出家し、後陽成天皇から京都嵯峨の村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号を賜った。その寺の住職は代々皇族や皇女が務め、昭和36年に、豊臣秀次が八幡城を建てたこの場所に移築された。そのような歴史があるため、この寺は「村雲御所瑞龍寺」と呼ばれ、日蓮宗唯一の門跡寺院となっている。付近には八幡城跡や豊臣秀次像もある。

帰りがけの一休みにお勧めなのは、参道の両側にある和菓子の「たねや日牟禮茶屋」と洋菓子の「クラブハリエ日牟禮館」である。この2店は1872年創業の和菓子屋「種屋」(現在のたねや)の看板ショップだ。どちらも素晴らしい建物で、ゆっくりとお茶や食事を楽しむスペースもある。クラブハリエには全国的に人気のバームクーヘンがあるし、日牟禮茶屋のつぶら餅も絶品だ。どちらに寄って行こうかと迷うのも、日牟禮詣での楽しみのひとつである。