暗殺されたリトビネンコ氏(提供:TG1/ANSA/アフロ)暗殺されたリトビネンコ氏(提供:TG1/ANSA/アフロ)

 2006年11月1日、ロシア連邦保安庁(FSB)の元職員だったアレクサンドル・リトビネンコ氏は、亡命先のイギリス・ロンドンで放射性物質ポロニウムを盛られた緑茶を飲み、約3週間後の11月23日に死亡した。彼の死にはロシア政府、特にプーチン大統領が関与していると言われている。

 リトビネンコ氏はなぜ殺されなければならなかったのか。彼の死後、残された家族は何を望み、イギリス政府はどのような対応を迫られたのか──。『プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの闘いの記録』(集英社新書)を上梓した小倉孝保氏(毎日新聞社論説委員兼専門編集委員)に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)

──リトビネンコ氏は、なぜ命を狙われなければならなかったのですか。

小倉孝保氏(以下、小倉):リトビネンコ氏殺害の裏側に、ロシア政府、すなわちプーチン大統領がいることは確かでしょう。ただ、FSBの元一スパイにすぎないリトビネンコ氏を、亡命先のイギリスまで追いかけていってまで暗殺する動機がないと私は感じていました。

 けれども、取材を続ける中で、FSBには暗黙のルールが存在していることに気づきました。それは、どこまでも裏切り者を追い続けて命を奪うという組織をまとめるための鉄則です。このルールのために、リトビネンコ氏は殺されたのではないかと思っています。

──リトビネンコ氏はどのような裏切りをしたのでしょうか。

小倉:リトビネンコ氏のキャリアはソビエト連邦軍からスタートします。軍で働く中でその能力を見出され、FSBの前身であるKGB(ソ連国家保安委員会)に正式採用されました。

 KGB、FSBはそれぞれソ連、ロシアの諜報機関・秘密警察に当たりますが、リトビネンコ氏が携わった仕事はそこまで泥臭いものではなかったようです。

 ただ、1994年に始まったチェチェン紛争において、現地で戦闘に参加したことが彼の気持ちを大きく変えました。

 現地には、ロシア軍に殺害されたと思われるチェチェン人の遺体がたくさん転がっていました。その中には子どもの遺体もありました。そういった光景を目の当たりにし、リトビネンコ氏はロシアのやり方に疑問を抱くようになりました。

 そして、1998年にロシアの大富豪ベレゾフスキーの暗殺を命じられたことで、FSBに対する彼の信頼は完全に崩れ去りました。リトビネンコ氏は顔出しで記者会見し、自身が組織から受けた命令を世界に曝露したのです。

 諜報機関に現役で所属しているスパイが、上司から特定人物の暗殺を指示されたと記者会見で公にすることは、一般常識では到底考えられません。けれども、1990年代後半のロシアは社会が非常に混乱していて、政府のタガが外れたような状態でした。

 どこまで自由が許されて、どこからが罰せられるかの境界線が非常にわかりにくくなっていました。

 そのような環境で、正義感の強いリトビネンコ氏は、越えてはいけない一線を見間違えてしまったのだと思います。