しかし、11月7日、ドイツ連邦議会は「今こそ二度と繰り返さない:ドイツにおけるユダヤ人の生活の保護、保全、強化」という決議(以下、反ユダヤ主義決議)を可決し、IHRA定義の導入を各自治体に求めた。「反ユダヤ主義を広めたり、イスラエルの生存権を疑ったり、イスラエルのボイコットを求めたり、BDS運動(イスラエルに対するボイコット、投資撤退、制裁を求めるキャンペーン)を積極的に支援したりする組織やプロジェクトに連邦資金が提供されないようにする」ことを明記し、特に文化・学術分野でそうすることが強調されている。

公的資金の配分でアーティストを統制

 決議に法的拘束力はないが、ベルリンの弁護士のヤスミン・ハムディ氏は、この決議は「役所が裁量に基づいて行政上の判断をする際に参照する」ものになるという。そのため、イスラエルに批判的で「反ユダヤ主義者」である可能性があると行政にみなされたアーティストは、今後資金を受け取れなくなるだろう。

 国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」は、この決議によって「言論の自由、文化、学問の自由、集会の自由が制限される可能性がある」と声明で警鐘を鳴らしている。

 前出のソフィアは言う。「ドイツには多くの文化助成金があり、アーティストにはユートピアのような場だと考えられてきた。アートが公的資金で支えられるのは、いいことだと以前は思えた。しかし、政府は誰を支援するか選別し、資金を道具として利用できるということがわかった。アーティストが国の望まないことを言い始めれば、政府は資金をカットできるのだ。

 ドイツにも民間のアートギャラリーはあるが、公的部門で活動できなければ、ドイツで成功するのは難しい。民間ギャラリーで作品がよく売れているアーティストも、大きな美術館での展覧会への参加なしにはキャリアをうまく展開できない。しかし、この国の美術館はほぼすべて何らかの公的資金を受けているため、一度ブラックリストに載ってしまうと、もう美術館で展示できなくなる」

「私は美術館に否定されたと感じた」

 11月22日、ベルリン中心部にある、国立「新ナショナルギャラリー」では世界で最も有名な写真家の一人であるナン・ゴールディン(71)の回顧展が開幕した。ユダヤ系アメリカ人で、1970年代から当時偏見を持たれていたLGBTQと共に生活し、写真を撮ってきたことで有名だ。2023年、アート雑誌「アートレビュー」で、アート界で最も影響力の強い人物と評価されたほどのアクティビストでもある。彼女が米国のオピオイド危機(麻薬鎮痛剤により多数の死者が出た薬禍問題)に抗議した様子を記録した映画『美と殺戮のすべて』は、2022年のベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。

 彼女は昨年10月、パレスチナの解放を支持し、イスラエルによるジェノサイドを批判する公開書簡に筆頭でサインしていた。さらに、反シオニストユダヤ人による停戦を求めるニューヨークでのデモにも参加し、警察に逮捕されたこともある。

 そんなゴールディンの展示会開催はドイツで波紋を呼んだ。この回顧展はヨーロッパの大都市を順番に回り、ベルリンでの開催は何年も前から企画されていた。社会に阻害されてきた人々を撮ってきた彼女の作品とアクティビズムを切り離すのは難しい。美術館は回顧展をキャンセルするのではなく、アーティストの政治的な態度について議論するシンポジウムをゴールディンに伝えずに企画した。

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