欧米諸国の危機管理担当者が、「テロ対策」の観点から「先進的な日本の取り組み」を見る視線で、時折気になることがある。それは「地下鉄サリン事件」などオウム真理教の無差別殺人と、第2次世界大戦中の「特攻」(特殊奇襲攻撃)がよく混同されることだ。
確かに21世紀の今日、「イスラム原理主義勢力」などが「自爆テロ」という形で「無差別殺人」を行っている、という現象としての事実がある。
「オウム事件」が「9.11同時多発テロ」に数年先立っていることから、日本が現代的な心理学的テロ対策の蓄積を持っているのも事実である。さらに「日本」と「自爆テロ」という2つのキーワードを欧米の観点から眺める時、「特攻」が想起されるのは無理のないことかもしれない。
だが私はむしろ、第2次世界大戦中の日本軍の行動より、その「負の遺産」と言うべき、戦後の動向を見る方が、直接の参考になるように思っている。具体的には韓国や中国、そして北朝鮮などが冷戦期も継続していた特殊軍務である。
第2次世界大戦時の「お国のため」とテロは違う
史実の細かいデータを確認しているわけではないが、これらの国々が、戦時中までの日本の方法を基に、戦後の軍事システムを組み上げていったと考えて、大きな外れはないだろう。
今日のイスラム原理主義勢力も「自爆テロリスト」を「聖戦の勇士」として顕彰する側面を持っている。街頭に「ジハードに命を捧げた英雄」のポスターが貼ってある報道も目にしたことがある。
だが、第2次世界大戦までの日本が、長年にわたって国を挙げて行ってきた皇民化教育、「肉弾三勇士」などの軍国美談で子供の頃から「大きくなったら兵隊さんになって、お国のために命を散らそう」と多くの少年たちが戦死に憧れすら持つ、という状況と、今日の「テロリスト」とは大きく異なっている。
非常に明白な事は、生まれたままの状態で「死にたい」と思う人間はほとんどいない、という単純な事実だ。自殺志願者は必ず「作られる」のである。ただ、その作られ方の規模が第2次世界大戦中と冷戦以後ではかなり変化していることに注意する必要がある。