そこでも徹底して、国益を損ねるような政策は廃し、純然と創造的な人材の育成を検討する正論、直球だけを投げ続け、プロジェクトが終わると「開高健賞」を得て、今につながる、御用とは一線を画す東大教授業にシフトしました。
こんなこともあり、この時期私が尽力した「東京大学知識構造化プロジェクト」などからは外されてしまい、全く関係のない人間が、関連で大学の出世街道を登って行きました。
私は昨年ようやくヒラ教授という、かつてのホープも見る影すらないロートルに変容しましたが、私はこの選択に悔いはありません。
産業政策や国の基である基礎学術、基幹研究や基盤開発の重要性、それらを任せるに足る人材育成という根本は、一度として外すことなく、いままで一貫してきた。その立場から本稿も書いています。
そしてこの2003年、いまだ新人ながらいきなり「自民党幹事長」に就任、翌04年選挙戦の敗北で辞任しますが、05年初入閣でいきなり内閣官房長官という、本来は酸いも甘いも嚙分けた政策通が就任すべきポストに安倍晋三さんはいきなり据えられました。
翌2006年にはもう「自民党総裁」内閣総理大臣に担ぎ上げられてしまったわけで、まともな経験や勉強の機会、時間などがなかったのは、同情すべきことかもしれません。
要するに「アベノミクス」なる名称で呼ばれる一連の政策群は、背景となる利害を受けて調整されたもので、日本の未来を育てる経済政策ではありませんでした。
さて、話を再度「改革要望」に戻しましょう。
この動きのそもそもは、宮澤喜一政権下の1993年、米民主党クリントン政権からの 「日米新パートナーシップ枠組みに関する共同声明」が発端とされ、当初は「提案書(submission)」と穏やかな文面でした。
この1993年に安倍晋三氏は、急逝した安倍晋太郎氏の後を受けて初当選、一年生議員になっています。
そして、この時期が「失われた10年」の本当の始まりでした。
いや、いまや「失われた30年」を経て「後進国へ転落」の、ボタン掛け違えの原点であったと言うべきかもしれません。
こののちIT革命やらアジア通貨危機やら、20世紀末年の激動を経て2001年、ビル・クリントン氏がホワイトハウスを去り、ブッシュジュニア氏が首班となります。
すると米国共和党政権の論調は一変するわけです。文書は「提案」から「勧告(recommendations)」に強化された。
そしてこの同じ2001年初、「自民党をぶっ壊す」という、いまでも似て非なキャッチフレーズを耳にする気がしますが、新しいスローガンで清新なイメージで売り出し、選挙戦を制したのが小泉純一郎氏でした。
この小泉政権成立前後から、官学茶坊主として政策文書に関わるようになったので、新政権以後の政策立案がどれほど、もっぱら米国益で書かれた「年次改革要望書」に左右されるかは、私自身はっきり身をもって痛感させられたわけです。
かくして、なるべくしてなる道筋をたどって「失われた10年」は「失われた20年」に接続する羽目となってしまった。
私ですら忸怩たる思いがありますし、正義派というべき官僚諸氏も、様々な煮え湯を飲まされたと思います。