政府は産業政策放棄、大学は人材育成難

 そもそもアベノミクス、アベノミクスと言いますが、安倍晋三さんという人自体は、総理総裁になり損ねた父、安倍晋太郎氏と親と顔が似ているのが最大の武器。

 それで選挙の顔に押し上げられた人で、実質的な政策立案能力は寡聞にして存じません。

 少なくとも外交に関してはかなり音痴であることを、私にとって外交の師にあたる田中均さんから手ひどく指摘され続けたものでありました。

 そんな安倍氏が抜擢されたのは2003年、山崎拓氏の性スキャンダルに伴って、閣僚も自民党の要職も未経験の「新人」だった安倍氏を「新鮮な選挙の顔」にするべく、小泉純一郎自民党総裁が幹事長に据えたのが始まりでした。

 ちょうど私はこの時期、内閣府と東京大学、それに私自身創設に加わった株式会社東大総研が手掛けた内閣府プロジェクト「動け!日本」というもので役割を分担していました。

 当時、大学でそれなりの責任を持っていた人たちから、小泉政権からのティーチインと思いますが「もはや『輸出だ』などと言っている時代ではない。イノベーションで国内を変えていかねばならない」と力説するのを見て絶句、売国的な仕事はできない、と一部の業務を断った経緯がありました。

 これは今回初めて率直に記すものですが、大反発を覚えました。

 私の父は旧制帝大時代に経済学部で学び、私も経世済民に一定の志がありましたので、こんな亡国の政策の片棒は担げない、と率直に思ったことを記したいと思います。

 この当時の自民党ならびに各省庁の官僚は、2001年に始まった米国共和党・ブッシュジュニア政権から毎年送られてくる「年次改革要望書」に添って政策を書いていました。

 あるいは添うようなフリをして、波風を立てないようにしていた。

 例えば、米国は「民事裁判」について「陪審制度」を導入して、外資に有利な判決を導こうとする作為が見え見えの「司法改革」を求めてきました。

 日本側では、法務省はこれを「はいはい」と流しつつ、結局「刑事裁判」に陪審を入れることでお茶を濁そうとした。

 すると、今度は裁判所側から猛反発が出た。

 つまり「有罪か無罪か」を決めるところを「陪審」に任せてしまうと裁判所はただの「量刑決定役所」になってしまう。

 これを避けるべく、詭弁を弄して作ったのが現在の「裁判員制度」で、故・團藤重光先生が、口を極めてこうした出たとこ勝負の司法を批判しておられたことなどは、私のこの本に記した通りです。

 ことほど左様に、若手の実務官政策は米国からの「改革要望」に沿った政策案を書けば、上席はスイスイと認めてくれ通るという時代が実際にありました。

 私の場合、各省庁に同期や幼馴染もありましたので、いろいろ教えてもらい、波風は立たないけれど魂は売らない政策を工夫するようにしました。

 少し考えれば誰でも分かる道理ですが、資源のない島国で原料を加工して付加価値を付ける以外に本質的な活路のないのが、この国の運命です。

 そんな日本において、「輸出を軽視するとは何事であるか!」と、2003~04年にかけて、これについては一切コミットしないことを直接の上席だった故・松島克守教授に告げました。

 以後私は「動け!日本」でもっぱら教育、人材育成という、本質的に国力を増強する部門だけに注力。

 こうしたなびかない姿勢から、私は「使いにくい奴」ということにされたと思います。しかし、魂を売ってまでこんな仕事はしたくない。

 結果、「伊東君は大学では使い切れんから」と、小宮山宏さん(元東大総長)から学術会議19期会長だった黒川清さんに紹介してもらい、2004年から05年にかけて第3期「科学技術基本計画」のアンカーなどを書きました。