地方地盤の自民党は是正に消極的だった
こうした格差を問題視する考えは早くから関係者の間に浸透しており、有権者数と議員定数の不均衡問題はしばしば新聞で報道されていました。長く政権を握ってきた自民党は地方を地盤としており、是正に消極的な姿勢が批判の対象になっていたのです。
そして1962年の参院選で格差が4.09倍になった際には、東京都内に住んでいた当時30歳の司法修習生が「鳥取選挙区では有権者18万人に議員1人だが、東京選挙区では実に74万人に1人だ。この4倍もの格差は憲法の定める法の下の平等に反しており、選挙は無効だ」と訴えたのです。これが一票の格差をめぐって選挙の無効を求める最初の訴訟となりました。
一審の東京高裁は4倍の開きがある現実を前に「この程度の不均衡ではまだ平等の原則に反するとは認められない」として訴えを退けましたが、その後、一票の格差をめぐっては選挙のたびに弁護士グループらが「憲法違反であり、選挙は無効」として訴えていくことになります。
しばらくは提訴しても「定数是正は立法府の問題」という判決が続きましたが、1972年の衆院選をめぐって司法判断が大きく動くことになりました。