(舛添 要一:国際政治学者)
2年前の2022年2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻した。戦争は3年目に入るが、停戦の見通しは全く立っていない。この2年間を振り返り、今後を展望する。
ロシア侵略の背景にあった「文明の衝突」
1989年にベルリンの壁が崩壊すると、3年後の1991年8月24日、ウクライナはソ連邦から独立した。
ただウクライナの東南部はロシア人も多く住んでおり、ロシアとの関係が深い。そこで、ロシアは強力にテコ入れした。一方、西部や中部は親西欧派が多く、EUへの加盟を求めた。ウクライナの東西で政治的意見も違い、国が二分される状況となった。いわゆる「文明の衝突」である。
2004年11月の大統領選決選投票では、親露派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチと親西欧派のヴィクトル・ユシチェンコの一騎討ちとなった。選管はヤヌコーヴィチの当選としたが、ユシチェンコ陣営は選挙に不正があったとして、首都キエフを中心に大規模なゼネスト、デモなどの抗議活動を行った。EUなどの仲介で12月に再投票が行われ、ユシチェンコが勝利し、大統領となった。これが「オレンジ革命」である。
しかし、ユシチェンコ与党の「我らのウクライナ」は、2006年6月の最高議会の選挙で惨敗した。その後、政権内部の抗争で、2010年の大統領選挙では、ティモシェンコと対決したヤヌコーヴィチが当選するという結果になった。
2013年、プーチンの圧力で、親露派のヤヌコーヴィチはEUとの政治・貿易協定の調印を見送り、ロシアやその経済圏との協力を強化しようとした。すると、これに反発した親西欧派が抗議活動を展開し、騒動は拡大して収拾がつかなくなり、2014年2月22日にヤヌコーヴィチは国外に逃亡した。