山内一豊の像(写真:Shinobu Soga/a.collectionRF/アマナイメージズ/共同通信イメージズ)

 NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第42回「天下分け目」では、上杉征伐に向かっていた徳川家康のもとに、石田三成が挙兵したという知らせが届けられる。家康は諸将を栃木県小山市に集めて、軍議を開いた。西国大名の多くが三成につくなかで、家康は天下分け目の大決戦に挑むことを決意して……。今回の見所について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

13カ条にわたって家康を弾劾した石田三成

 大河ドラマ『どうする家康』では、天下分け目の大決戦、関ヶ原の戦いが近づいてきた。そもそものきっかけは「上杉討伐」である。

 家康の度重なる要望に対して、上杉景勝は「すぐには難しい」という旨を伝えながら、大坂行きを引き延ばし、自国の内政に専念。一向に大坂へ向かおうとしなかった。そのうえ、景勝が武器を集めていることから「謀反の疑いがある」という声が高まり、家康が討伐へと乗り出すことになる。

 慶長5(1600)年7月21日、江戸を出立した家康だったが、3日後の24日に下野国小山に在陣しているときに、石田三成の挙兵が知らされたという。

 三成は豊臣三奉行である前田玄以、増田長盛、長束正家らを取り込んで、「内府ちかひの条々」を諸大名宛てに送付している。「内府ちかひの条々」とは、家康弾劾の書状であり、次のような内容がつづられていた。

「5人の御奉行のうち、前田利長は潔白を示して誓紙まで提出して、事が決着しているにもかかわらず、上杉征伐を実行に移すため、あえて人質を取り追い込んだ」

「上杉景勝は何の咎もないのに、秀吉の遺命に背いて討伐しようとしている」

「知行宛行の権限を独占し、秀吉の遺命に反して、忠節も果たしていない者どもに領知を宛行った」

 そのほか、家康が大坂城西ノ丸に入ったことや、そこに天守閣を建てたこと、人質であるはずの諸大名の妻子を勝手に帰したことなど、豊臣秀吉への忠誠に背いたという点でも、家康は批判された。

 もちろん、家康が反感を買うきっかけとなった「数多くの婚姻を進めたこと」も糾弾すべきこととして挙げられている。その項目は実に13カ条にも及んでおり、豊臣秀吉亡きあと、家康がイニシアチブをとって実行したことが、すべてやり玉に挙げられたといってよいだろう。

「内府ちかひの条々」は、京都や大阪の状況に詳しくないであろう、九州の諸領主を中心に送付された。送付してすぐに三成の盟友である大谷吉継が、九州の諸領主を西軍に取り込むべく、交渉に動いている。

 ドラマでは、松本潤演じる徳川家康のもとに、西国大名の多くが三成側につくという情報が続々と寄せられる様子が描写された。家康はこんなセリフを吐いている。

「徳川家康、天下を治るに能わず……多くの者がそう申しておる。民の声、天の声かもしれんな」

 弱気なセリフとは裏腹に表情は堂々としており、いかなる事態も乗り越えてきた経験の重みが感じられた。

 果たして自分についてくる者はどれくらいいるのか――。家康は小山にて諸将を集めると、軍議を開く。世に言う「小山評定」であり、今回の放送でも大きな見せ場となった。