NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第43回「関ヶ原の戦い」では、徳川家康が野戦を決意し、家康を中心とした東軍と、石田三成を中心とした西軍が関ヶ原で激突。当初は三成の作戦通りに、家康は敵軍に包囲されたかに見えたが、三成に味方するはずの小早川秀秋がなかなか動かず……。今回の見所について『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
三成の挙兵にうろたえた「意外な人物」
慶長5(1600)年9月15日、美濃国(現在の岐阜県)の関ヶ原にて、徳川家康は石田三成と激突することとなった。その経緯はどのようなものだったのか。ドラマとの比較も交えながら解説していこう。
関ヶ原の戦いは日本を2分した「天下分け目の大決戦」として語られるが、当初は三成と大谷吉継のみの挙兵だった。家康が越後国主の堀秀治に宛てた7月26日付の書状のなかで「石田治部少輔・大谷刑部少輔逆心について」という文言が見られることからも、それはわかる。
家康は同日付の書状で岡崎城主の田中吉政に「石田三成の居城、佐和山城を攻めよ」と指示。すぐさまこの反乱の芽を摘むべく動いている。三成の唐突な挙兵にうろたえたのは、むしろ秀吉の側室で、秀頼の母である淀殿や、大坂の奉行たちだった。
「徳川四天王」の一人である榊原康政が、東軍についた秋田実季に宛てた7月27日付の書状によると、淀殿と大坂の奉行たちもこんな書状を家康に出していたという。
「早く上方に戻って来て、三成たちの不穏な動きを鎮めてほしい」
この時点では、三成の暴挙に西の大名たちが合流するとは、淀殿も奉行たちも予想していなかったと考えられる。しかし、ドラマでは北川景子演じる淀殿が、一方では三成に挙兵をけしかけながら、もう一方では家康に三成を鎮めるように書状で伝える……そんな「二枚舌ぶり」を発揮している。
ドラマでの淀殿は、家康に立ちはだかる難敵として描かれている。それだけに家康に「助けてほしい」と働きかけていたという書状は、ストーリー上はやや都合が悪い。それにもかかわらず、うまく逆手にとってドラマに取り入れていたように思う。