(鳴神響一:小説家)
『鬼船の城塞』などの歴史時代小説や、『脳科学捜査官 真田夏希』、『警察庁ノマド調査官 朝倉真冬』などの警察小説シリーズで知られる小説家・鳴神響一さん。今回は、乃至政彦氏の新刊『戦国大変 決断を迫られた武将たち』について、一次史料と、歴史上の人物の主観を探る分析を主に、「目からウロコ」な本書の読みどころを教えていただいた。(JBpress)
一次史料に対する著者の慎重な分析視点
本書を手にしてページをめくるうちに深く引き込まれ、時の過ぎゆくのを忘れた。いままで事実だと信じていた多くの歴史的場面がことごとく塗り替えられていったのである。目からうろこの大変な時間が続いた。
本書は1520年の【水原弥々松×長尾為景】から1600年の【本多忠勝×石田三成】まで、時代順に20稿のトピックに分かれている。著者はそれぞれの項目に関して多くの文献を緻密に検証しながら通説に対する疑問を呈し続けている。さらに楽しい三項目の番外編が加えられている。そんな構成を持つ本書の魅力について述べていきたい。
まず惹かれるのが、一次史料に記された内容に対する著者の慎重な分析視点である。
ご存じの方には恐縮だが、一次史料とは『文献史料を例にとると、その目安となるものは、その史料を「いつ」「どこで」「だれが」書いたか、の三要素であり「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たしたものを「一次史料」と呼び、そうでないものを「二次史料」と呼んでいる。一次史料の代表的なものには日記、書翰、公文書がある。』(国立国会図書館ウェブサイト)
歴史研究において、一次史料に既述された内容について信頼度が高いものとして扱うのは当然である。後世に書かれた、たとえば軍記物などの二次史料に書かれた内容は伝聞を中心とする。聞き間違いも記憶違いも多々あり、場合によってはねつ造も散見されるからである。
それでは、一次史料に書かれた内容は常に真実なのか。この疑問に真正面から答えてくれるのが第16稿の1585【伊達政宗×小手森城】である。
伊達政宗は天正一三年(1585)に、大内定綱の小手盛城を攻めた。当主の定綱が逃げ出した後に、政宗が居残った者を女子供まで惨殺したという有名な逸話がある。政宗の苛烈な一面を伝えるこの話は、政宗自身の書状に記されているのである。まさに一級の一次史料に違いない。
著名なものは、伯父であり隣国当主である最上義光に落城当日に政宗が送った書状である。政宗は「大内定綱に属する者を五〇〇人以上討ち取りました。そのほか女子供だけでなく、犬までも撫で切りにしました。合計一一〇〇人以上を斬らせました」(P.235)と記している。この書状により、政宗の「小手盛城の撫で切り」は世に真実として流布した。従来の通説も小手盛城の惨殺を史実として認めてきた。
ところが、小手盛城攻略戦について記した政宗自身の書状はほかに二通が現存する。二通目は翌日、家臣の後藤信康に送った書状、さらに三通目は翌月、僧侶の虎哉に送ったものである。ところがこの三通には撫で切りにした人数をはじめいくつもの食い違いがある。
著者はこの食い違いに着目する。なぜそうした内容の違いが生まれたのか。後藤信康あての書状では殺戮人数は二〇〇人とされていて奉公人、まして女子供は入っていない。虎哉への書状は八〇〇人を殺したとしている。ただの誤りではないのだ。
著者は政宗の主観に入り込んでその謎を解こうとする。詳細な論考の末、著者は「小手盛城の撫で切り」の逸話が、真実から遠いものである結論を導き出していく。この論旨の進め方は脱帽のおもしろさである。どんな結果が明らかになるかをぜひ楽しみにお読み頂きたい。