(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
谷戸運動公園を中心とした一画
東京23区に古城を訪ねるシリーズ、今回は中野城山(しろやま)である。JR中野駅から東南東に直線距離で約900メートルほどにある、谷戸運動公園を中心とした一画が、中野城山だ。
中野駅を南口に降りたら、左手の線路沿いの道に入る。図書館とホームセンターの前にある五叉路に出たら、そのまま東に直進して狭い道へ。坂を下ると城山公園に突き当たるので、ここを右に進み、道なりに左に曲がると、谷戸運動公園に出る。
この公園と、北隣・東隣のマンション、郵政官舎の敷地のあたりが、中野城山である。といっても、公園の入口に、小さな説明板がひっそりと立っているだけで、城らしい遺構は特に見当たらない。知らなければ、間違いなくスルーしてしまうだろう。
明治時代の地形図を見ると、100メートル四方ほどの範囲に土塁が廻っていたことがわかる。また、調査報告書などを見ると、公園北隣のマンションと郵政官舎との敷地境には、30年くらい前まで土塁が残っていた。
こうした記録と照らし合わせてみると、公園の南側の道路や、西側道路の一部、東隣のマンションと郵政官舎の前(東側)の道は、堀跡だったことがわかる。くれぐれもマンション等の敷地に立ち入らないよう、気をつけて歩こう。
要するに、100メートル四方ほどの規模で土塁と堀を廻らせたプランの城だったわけだ。発掘調査報告書を見ると、内部はさらに土塁で区画されて、建物が何棟か建っていた様子がわかる。
ただ、城の中心部に当たる場所でも、屋敷の主屋にあたるような大型の建物は見つかっていない。小屋か倉庫のような小さな建物ばかりである。だとしたら、有力者の屋敷とは考えにくい。
また、報告書を丹念に読むと、発掘調査で見つかった遺構は新旧2時期に分かれることがわかる。古い時期の遺構はおおむね南北朝〜室町時代、新しい時期の遺構は戦国時代のもので、土塁は古い時期の遺構の上に築かれている。つまり、この場所にはもともと人が住んでいたのだが、戦国時代になって土塁が築かれて城になった、ということだ。
さて、城のサイズ感が掴めたら、中野城山の正体を探るために、もう少し周囲の微地形を観察してみる。公園を出て南に向かうと、大久保通りを渡って少し行ったあたりから、ゆるい登り坂になる。坂の手前に、東西に「桃の木川緑道」が通っている。
察しのよい方ならピンと来ただろうが、この緑道は暗渠跡であり、かつて桃園川と呼ばれた小河川の名残だ。緑道のところから振り返ってみると、大久保通りのあたりが低く、谷戸運動公園つまり城山は、そこからわずかに高いことがわかる。つまり城は、桃園川に沿った浅い谷に面する微高地に構えられていたわけだ。
中野城山は、桃園川に臨む微高地に築かれていたから居住性は高い。南から来る敵は、わりあい防ぎやすかっただろう。けれども、北には台地を背負っているから、要害堅固というわけにはいかない。こうした城の立地と形態、発掘調査の成果を付き合わせて考えるなら、奥沢城(第3回/3月掲載)のような陣の可能性が高いように思う。
誰が何の目的で築いたのかわからない中野城山ではあるが、住宅地のただ中に、城跡を偲ぶことのできる空間が残っていること自体が、奇跡的ともいえる。そこからどんなイメージが立ち上がるのかは、歩く人次第である。
参考文献:中野区教育委員会・中野城山遺跡調査会『中野城山居館跡 発掘調査報告書』(1991年)
[お知らせ]9月15日(金)〜18日(月祝)の4日間、横浜の鶴見サルビアホールにて、お城好きによるお城好きのためのイベント「城熱祭」が開催されます。西股は17日、城郭写真家の畑中和久さんとのトークセッション「城とカメラの深イイ話」などに登場予定。詳しくは城熱祭実行委員会のホームページへ。