現在のハンフォード核施設(写真:AP/アフロ)

「アメリカで最も有毒な場所」と呼ばれるエリアがある。米ワシントン州に位置するハンフォード核施設だ。1970年頃まで、ここでは核兵器製造に使うプルトニウムの精製が行われた。

 現在も除染作業が続くこの場所には、近隣住民による健康被害の訴えが後を絶たない。米エネルギー省の請負業者は、最低でも1100億ドルを費やし、およそ50年かけて除染活動を行う必要があると語る。

黙殺された被曝者の声 アメリカ・ハンフォード 正義を求めて闘った原告たち』(明石書店)を上梓し、ハンフォードの被曝者たちの問題に40年関わり続けてきた弁護士のトリシャ・T・プリティキン氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──ハンフォード核施設とは何か教えてください。

トリシャ・T・プリティキン氏(以下、プリティキン):ハンフォード核施設は米政府によって秘密裏に運営された、ワシントン州にある巨大なプルトニウム製造施設です。

 核兵器の製造を目的に造られた施設で、米国の北西部にあり、コロンビア川に隣接しています。マンハッタン・プロジェクトや冷戦時代も含め、1944年後半から数十年にわたり稼働を続けました。

 ハンフォードが人知れず放射性同位体を空中に撒き続けた結果、ワシントン州東部からアイダホ州、モンタナ州西部にかけて、そして、オレゴン州北部から、国境を越えたカナダのブリティッシュ・コロンビアにかけて影響が広がりました。

 しかも、この施設は固体と液体の放射性物質を隣接するコロンビア川に流していたため、ハンフォード核施設から太平洋にまで深刻な影響を与えました。

かつてのハンフォード核施設(写真:Trisha T. Pritikin)

──ご自身の被曝体験について書かれています。

プリティキン:私はハンフォードの風下にあるリッチランドという街で生まれ育ちました。川向こうのパスコやケネウィックといった町には、ハンフォードで働く建設作業員たちが住んでいましたが、リッチランドは主に科学者やエンジニア、そして、その家族が住むエリアでした。

 私の被曝は母のお腹の中から始まりました。まだ妊娠5カ月の母の子宮内にいる段階です。

 放射性ヨウ素や放射性核種は胎盤関門を通過するのです。生まれた時、膝の関節に先天性欠損症がありました。遺伝からくる奇形化です。医療措置を受けましたが、現在、私は歩けない状態です。

 成長過程で、私は他の子どもと同じようにたくさんミルクを飲みました。ここからも放射性ヨウ素を摂取していました。放射性ヨウ素は大気から牧草に降り注ぎ、牛や山羊がその草を食べる。ミルクにも放射性ヨウ素が含まれるのです。

 汚染された家畜の牛の肉も食べました。

 ハンフォードの調査員はしばしばパスコの食肉処理場を訪れ、放射性物質の量を計測するために、動物たちの甲状腺や内臓を採取していた。放射性ヨウ素は甲状腺を傷つける場合があるからです。これはハンフォードによる牧場の家畜の実験でも明らかになっています。

 コロンビア川からの被曝もありました。家族とよく川で泳いだのです。ボートで川を上ったり下ったりしました。ハンフォードで働いていた科学者の多くは元海軍兵でした。彼らは船を持ち、川遊びすることを好みました。

 少量の放射性同位体でも、長いこと蓄積されれば膨大な量になります。特に子どもの身体はこういった影響に対して脆弱です。私の甲状腺は子どもの時に成長を止めました。とても小さいのです。

 さらに、自己免疫システムにより、自分で自分を破壊してしまいます。これは橋本病(慢性甲状腺炎)とも呼ばれます。私たちは毎日被曝していました。科学者たちはいろんな調査によって、その危険を知っていたはずです。