甲府駅前の武田信玄像(山梨県甲府市) 写真/アフロ

 戦国時代の「禁制」とはどんなものだったのか?

  話題を呼ぶ歴史家の乃至政彦氏の新刊『戦国大変』では、「桶狭間の戦い」「関ケ原の合戦」などその名の知られた戦から「大寧寺の変」「姉川合戦」など歴史の教科書ではなかなか触れられることのない合戦まで、一次史料をもとに「新しい解釈」を提示している。

 今回はそんな『戦国大変』について読者から寄せられた質問、「禁制」と「兵糧問題」について聞く。

問い 戦国合戦において、戦いが長引いた場合、兵糧の現地調達、略奪が行われていたと聞きますが、それは本当でしょうか? 実際はどうだったのでしょうか?

日本の戦国時代は「略奪社会」だったのか?

 『中世への旅』(ハインリヒ・プレティヒャ著 白水社)という西洋史のシリーズが話題になっているのですが、そのなかに「農民戦争と傭兵」という一冊があります。

 そこには戦時の兵糧問題について書かれているのですが、では、戦国時代の兵糧事情はどうだったのかと探ってみたところ、どうも日本の戦国時代は、海外とは違うようだということが見えてきました。

 日本の戦国時代でも、後方から兵糧を支援したり、兵糧を現地で調達するということがあったとされており、特に最近は、現地調達で兵糧をおぎなった比率が高かったのではないかといわれています。

 現地調達とは、つまり、現地で略奪をするということです。戦国武将は戦いの際に、略奪することで、自分たちに必要な物資(兵糧・武器・道具など)を揃えていた。そんな解釈が、最近、主流になりつつある感じがしています。

 ただ、じつは、これには史料的な根拠がありません。戦国時代には、そういった記録が、あまりないのです。

 では、実際は、どういうことをおこなっていたのか。

 また、何故こういった説が出てきたのかというと、各地の戦国大名が戦場ならびにその周辺地域で出した、「禁制」にあります。

 禁制には何が書かれているかというと、攻め込む側の大名や武将が、「現地で破壊行為をするな」「火をつけるな」「伐採をするな」「奪うな」などといったことを約束したということが、書かれています。現地の村や集落、お寺や神社で、禁制事項が書かれた文書を、「高札」にして掲げるわけです。

 この禁制が史料として現存していることで、「ということは、この禁制が出されていないところでは、略奪がし放題だったのだな」という解釈が成り立ち、戦国時代では、「略奪が当たり前だった」というイメージが、広く一般にも定着してきています。