(町田 明広:歴史学者)
◉幕末維新人物伝2022(20)生麦事件160年ー歴史的な大転換の真相①(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72484)
生麦事件の背景
薩摩藩国父(藩主実父)である島津久光は、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を新設の政事総裁職に就任させることを、朝廷(勅使)の威を借りて実現した。しかし、念願の幕政参画は実現できず、極めて不本意な心持ちのままで帰京せざるを得なかったのだ。
幕府は当時、横浜の外国人居留地に対し、参勤交代などで東海道を大名が通過する際、その日時を伝え、外出を控えるように要請していた。これは、不測の事態に備えるためである。しかし、生麦事件勃発は週末にあたり、その要請がリチャードソンらに伝わらなかった可能性も否定できない。日本は、この段階では西洋暦を使用しておらず、当然曜日の感覚がない時代であった。
文久2年8月21日(1862年9月14日)、久光を護衛する不愉快極まりなく殺気立った400人ほどの武装集団が東海道を進軍し、横浜方面に向かっていた。生麦村に差し掛かったとき、川崎大師に観光(ピクニック)目的で向かっていたリチャードソン一行4人と遭遇した。ここで、大きな悲劇が発生してしまったのだ。
リチャードソンの殺害
行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のリチャードソンら4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように要請した。注目したいのは、薩摩藩士は問答無用に抜刀して切りつけたわけではなく、日本の作法に従えと促している事実である。即時攘夷を貫くのであれば、出会った瞬間に切り倒していたであろう。
しかし、リチャードソンらは下馬するでもなく、前進を続けており、一方で久光の行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、騎馬のリチャードソンらは結果として脇に寄ることもできずに、行列の中を逆行して進行した。そして、彼らは鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れてしまったのだ。
供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、ようやく事態の深刻さを認識したが、引き返そうとした時、その場で馬が堂々巡りしたため、奈良原喜左衛門および他数人の藩士が抜刀して斬りかかった。リチャードソンは肩から腹へ斬り下げられ、臓腑が飛び出るほどの深手を負い、200メートルほど戻ったものの落馬してしまい、追いかけてきた海江田信義に止めを刺された。
マーシャルとクラークも傷を負い、ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であった。おそらく、薩摩武士は女性には手加減をしたものであろう。3人は命からがら、横浜の手前の神奈川まで逃げ帰り、そこで保護された。負傷した2人は、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士の治療を受けている。