薩摩藩国父(藩主実父)である島津久光は、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を新設の政事総裁職に就任させることを、朝廷(勅使)の威を借りて実現した。しかし、念願の幕政参画は実現できず、極めて不本意な心持ちのままで帰京せざるを得なかったのだ。 幕府は当時、横浜の外国人居留地に対し、参勤交代などで東海道を大名が通過する際、その日時を伝え、外出を控えるように要請していた。これは、不測の事態に備えるためである。しかし、生麦事件勃発は週末にあたり、その要請がリチャードソンらに伝わらなかった可能性も否定できない。日本は、この段階では西洋暦を使用しておらず、当然曜日の感覚がない時代であった。 文久2年8月21日