社会における個人化の進展とともに友達の概念も大きく変わっている(写真:アフロ)

 古代ギリシアでは、哲学者たちは友達を「奇蹟の産物」と考えた。知り合いをみんな「友達」と考える現代とは、人と人の心の距離は大違いだった。今日、若者たちはSNSやマッチングアプリなどを駆使して「形から入る友人」という関係をいともたやすく増幅させていく。しかし、それは本音でぶつかり合って、表面的な一体感が失われると、あっという間に消し飛ぶほど儚く頼りない関係でもある。

 個人の自由がますます尊重されて、デジタルツールがより発展していく世界で、我々は社会や友人とどのように付き合っていくのか。『「友だち」から自由になる』(光文社)を上梓した早稲田大学 文学学術院 文化構想学部 教授の石田光規氏に話を聞いた。(聞き手:柏 海、シード・プランニング研究員)

※記事の最後に石田光規氏の動画インタビューが掲載されていますので、是非ご覧下さい。

──世の中には「友達はいらない」と考える人もいます。本著の中で「友達」という概念から距離をおくことを推奨されていますが、どのような意味なのでしょうか。

石田光規氏(以下、石田):私自身は家族以外の人を一律に「知り合い」と呼んでいます。「友人」というと、人とのつながりに重み付けをしているような気分になるからです。

 一度、誰かに「友人」や「親友」という肩書をつけてしまうと、それに見合った関係性にしようと無理をしてしまいます。それよりはフラットにみんな「知り合い」とした方が好きなことが話せて、気楽に付き合えるからです。

 親しく付き合い、友達だと思っていた人が時間の経過とともに距離ができて、友達だと感じられなくなることはしばしばありますよね。以前は毎日会って一緒に飲んでいたけれど、今は会わなくなった人たちのような。こういう自然に疎遠になることを受け入れることが大切だと思います。

「友達はいらない」というと、「人間関係から撤退する」というような宣言のようにも解釈されえますね。友達はいてもいなくてもいいですが、人付き合いは必要です。人の輪の中に入って活動することは人間として重要なことだと思っています。

──友達の定義とはどのようなものでしょうか。

石田:かつての哲学者たちは、長い時間をかけて育む人間同士の理想の関係に「友」や「友情」という言葉を割り振っていました。親しさよりもむしろ、徳や善に重きがおかれ、私的で親密なものというよりも、お互いの徳を高め合いながら、社会に寄与するつながりを指して「友」と言っていたんです。

 そのため、「友情」は市民社会の中心である身分の高い男性たちのものと考えられていました。

 現代社会では、友人・友達という表現があふれ、大衆化しています。「友人」の定義については社会学の中でも大きく揺れていますが、究極的には主観的な判断で自分が友達と認めるかどうかが友達とそうでない人の境界線になっています。

 でも、主観的なものだとすると、そこには危うさがあります。

 今日は友達である人が、明日、明後日にも友達であるかどうかの保障はありません。自分が友達だと思っている限りは友達で、そう思わなくなると友達ではなくなるという非常に危うい概念です。

 自分も相手も相互に友人と認めて初めて成立する関係性なので、自分の想いが一方通行だと寂しさを感じることになります。

──相互で自分たちは友達であると認識しないと成立しないということは、恋人関係にも似ていますよね。