(歴史家:乃至政彦)
※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。
勇者・足利義昭
足利義昭というと弱そうなイメージを持つ人が多いと思う。また、信長の操り人形にされかかったというイメージも強い。
しかし義昭は、初期の頃から合戦の前線に出ることがあり、しかも信長以外には勝利を重ねている。
有名なのは、本圀寺の変における六条合戦だろう。
永禄12年(1569)正月4日、三好三人衆が一色龍興・長井道利らを糾合して、義昭の仮御所である京都の六条本国寺(日蓮宗寺院)を襲撃した。義昭を将軍に就けた織田信長は、美濃に帰国して不在だった。
将軍御所は兄の足利義輝が殺害される際に失われてしまっており、昨年将軍となったばかりの義昭には、籠城可能な拠点が寺院ぐらいしかなかったのだ。
義昭のもとへ、足軽衆や奉公衆など、畿内の諸勢が馳せ参じる。彼らは寺の外へ三好軍迎撃に出た。
本国寺の人数は2000で、三好三人衆は一万以上であったという(『当代記』)。『言継卿記』によると、将軍方は「武家御足軽衆廿余人討死」「責衆死人手負数多これあり」とあり、苦戦を強いられたようだ。
それでも何とか押し返した。 一次史料によると、この争いで将軍は自ら馬を駆り、三好三人衆に従う者たちをことごとく討ち捕ったという(『上越市史』[別編2上杉氏文書集]666号/【原文】「上意(将軍)被寄御馬、御自身被切懸候へハ、天罰候哉、随分之者共悉被討捕、其儘敗北候」)。しかもこの戦いで義昭は、足利尊氏愛用の甲冑を身につけていたというのだから、ロト装備で身を固めた勇者も同然の神々しさと言えよう。
亡き兄に負けまいと名物の刀剣を握りしめ、勇戦したに違いない。
この瞬間、足利義昭はまごうことなき勇者であった。