かつて日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「帰国(北送)事業」。1959年からの25年間で9万3000人以上が「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮に渡航したとされる。その多くは極貧と差別に苦しめられた。両親とともに1960年に北朝鮮に渡った李泰炅(イ・テギョン)氏も、そんな帰国事業の被害者の一人だ。その後、脱北した李泰炅氏は艱難辛苦の末、今は韓国で暮らしている。
脱北医師の李泰炅氏による手記。今回は1998年に起きた黄海製鉄所虐殺事件の真相についてだ。
◎李 泰炅氏の連載はこちら(https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E6%9D%8E%20%E6%B3%B0%E7%82%85)をご覧ください
松林市騒乱の起きた1998年8月、保衛司令部の検閲と戦車の往来、そして公開処刑によって、松林市は恐怖と不安、さらにその後の投書による密告などが複雑に絡み合って混乱した。友人や知人が政府を批判し、また脱北を図ったという濡れ衣の理由から、政治犯収容所に連行される場面を筆者も多く目撃した。
もっとも、他人を信じることのできない北朝鮮社会で数十年間生きてきた私にも、兄弟のように信じ合う友人がいた。黄海製鉄所の担当保衛員(いわゆる公安警察)だった人間もその一人だ。
彼は松林市の混沌の中、私に韓国製の小型ラジオをくれた。そして、ラジオを渡しながら、彼は「筆者が通っている職場の情報員(密告者)は誰それだから気をつけろ」という助言をしてくれた。
彼は近く北朝鮮は崩壊すると見ていた。そうなれば、秘密警察のような存在である保衛員が国民による最初の処断対象になるに違いない。その時には、「市民を傷つけるようなことはしていない」と弁護してほしいと私に頼んだ。
北朝鮮の保衛部は、韓国の国家情報院と同様、すべての情報が集まっている。実は、保衛司令部は松林市で争乱が起きる1カ月前から「黄海製鉄所鋼鉄密売事件」を秘密裏に捜査していた。当然、保衛員の友人も、ある程度の事情を知っていた。
「脱北者が語る、飢える労働者を虐殺した黄海製鉄所虐殺事件の真実」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66822)で書いたように、松林市騒乱事件について、機関銃掃射や戦車の突入などによって黄海製鉄所の数百、数千人の労働者が虐殺されたとネットに書かれている(参考)。だが、松林市に住んでいた筆者自身、そのような殺戮劇は見ていないし聞いてもいない。
今回は、友人だった先の保衛員と、その仲間の担当安全員から聞いた「松林市騒乱事件」の内幕を暴こうと思う。