松林市には次々に戦車がやって来た。写真は朝鮮労働党創建70周年の祝賀行事でのもの(写真:AP/アフロ)

 かつて日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「帰国(北送)事業」。1959年からの25年間で9万3000人以上が「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮に渡航したとされる。その多くは極貧と差別に苦しめられた。両親とともに1960年に北朝鮮に渡った脱北医師、李泰炅(イ・テギョン)氏による今回の手記は1998年に起きた黄海製鉄所虐殺事件について。

◎李 泰炅氏の連載はこちら(https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E6%9D%8E%20%E6%B3%B0%E7%82%85)をご覧ください

 松林事件から23年が過ぎた。記憶を辿ると同時に、確実な証言を得るため松林市を知る脱北者たちにも話を聞いた。1998年は確かだが、3月15日だという脱北者もいた。私は夏だったと記憶している。

 ある日の午前3時頃、鼓膜が破れるほどの振動音で目が覚めた。台所のベランダにもたれて外を見た。当時、住んでいた家は7階で、衛星写真のように街が見えた。アパートの窓から薄暗い月の光に照らされた家々が見える中、戦車が真っ黒な煙を吐き出しながら次々とやってくる。1、2、3・・・15台と続いている。

 戦争が起きたのだろうか。それとも単純な部隊移動なのか?しばらくこう考えたが、「北朝鮮生活での数十年間の戦争準備、あるいは非常事態」という言葉は耳慣れた言葉だ。この光景を見て驚いたものの、すぐ部屋に戻った。

松林市騒乱鎮圧事件は独裁的な北朝鮮を象徴する出来事だった(写真:AP/アフロ)

 そんな翌日の午後、人民班の集まりから帰ってきた妻が、「黄海製鉄所から数多くの工場資材が外部に流出した」「保衛司令部が非社会主義現象を防止するため、松林市に来た」という話をした。

 燃油所(ガソリン貯蔵倉庫)がある梧柳洞(オリュドン)に行く道や黄州(ファンジュ)につながる道、平壌江南郡と隣接する馬山里(マサンリ)、新梁里(シンリャンリ)方向の松林(ソンリム)駅など、戦車で遮断して検問が行われた。人民軍戦車隊に無条件に服従せよということだった。

 松林市市民は、突然やってきた保衛司令部と戦車部隊、人民軍に呆気に取られた。どのアパートや家にも4-5人の軍人が銃を持って、出入りする人々の「公民登録証」を検閲した。こんな光景は映画でしか見たことない戒厳令の状況だ。

 通り過ぎる人々を検問する中、「隣のアパートに住んでいる両親の家に行くのに公民証を持って行く人がどこにいるのか」と怒鳴るおばさんたちがいた。そのおばさんたちは続けて、「苦難の行軍で、国家が国民を食べさせることができなくなって、暮らしにくくなっている」と不満を小声で話す。

 市民を統制する中、人民委員会(市事務所に相当)の指導員と軍人の間で言い争いが起きた。

 この人民委員会指導員は1-2カ月前に除隊した将校軍人で、除隊前は数十人の軍人を従えていた。その指導員を統制しようとする軍人が公民証を要求すると、「除隊したばかりで公民証を発給してもらってない」と食ってかかり、検問していた軍人が「逮捕する」と脅した。

 怒声が飛び交い、軍人がAK-47式自動小銃を指導員の彼の頭に突き付けたという。

 こういった保衛司令部に対するよくない噂が飛び交い始めると、検問軍人に無条件服従せよという布告文が再び出された。恐ろしい噂と布告文で、市民は見えない恐喝と圧迫に震え上がったのだ。