半面、このデジタルには弱点がふたつあります。ひとつは、デジタル化ということにこだわりすぎてしまうと、作ることに一生懸命になってしまうことです。例えば自治体で「デジタル化を進めよう」ということになると、行政情報を細大漏らさず網羅するホームページを一生懸命つくったり、SNSに細かく情報をアップしたりといった具合になりがちです。あとは「スピーディに簡潔化して要点を出しているので、伝わるはずだ」と。ただ、せっかく作り込んでアップしても、見られなければ意味がありません。一生懸命つくるのはいいことなのですが、そこに熱心になりすぎて肝心の「伝えること」まで気が回らなくなってしまいます。こうなると住民に対して「本音を見せる」とか「寄り添う」という感じが弱くなってしまい、却って「伝わらない」ことにもなりかねません。

 特にこのコロナ下で、「できるものは、なんでもオンライン、なんでもデジタルで」という流れが出来ています。それは一見いいことなのですが、「SKY」ばかりを重視して、「どんな風に作り込むか」というところにばかり意識が集中すると、本来、アナログの得意分野である「本音を見せる」とか「丁寧に寄り添う」といった部分が弱くなるのです。

よいオンライン教育、悪いオンライン教育

 ここで、再び菅総理のことを思い起こしてみましょう。繰り返しになりますが、菅総理の政策は、携帯料金の値下げや、ワクチンの接種、デジタル庁設置に代表されるデジタル化推進とか、結構きちんと要点をスピーディに作りこんではいるのですが、本音をちゃんと見せて寄り添うというアナログ的部分が弱いので、せっかくの動きがあまり理解されないという、良くない意味で典型的な「デジタル宰相」になってしまっていると言えます。

 先日、子どもの教育支援活動をしている認定NPO法人「カタリバ」代表理事の今村久美さんと番組で対談する機会がありました。今村さんによれば、オンライン教育の正しい実現には必要な要素が3つあるとのことでした。1つはパソコンやタブレットのようなデジタル機材そのもの、2つ目がそれらを使うためのテクニカルサポート、そして3つ目が、そういうデジタル機器を活用して、どう勉強していったらいいのかを示してくれるナビゲートだそうです。デジタル機器とテクニカルサポートには気が回りやすいのですが、最後のナビゲートの部分がオンライン教育の成否を分けるというお話がありました。

 学校側の教師や、家庭における親がその部分を補えれば良いですが、物理的制約などにより、なかなか難しい部分もあります。特に一人親世帯など、寄り添ってくれる大人という意味での環境に恵まれない生徒には、大学生のボランティアなどが大切になりますが、いずれにせよ、そういった大人のナビゲーションが要るというのです。