名門・武田家の家督を受け継いだ勝頼でしたが、長篠の戦い(1575年)で織田・徳川連合軍に敗北して以降、徐々にその支配勢力は削られ、最終的には彼の代で武田家は滅ぶこととなります。こうした歴史の流れだけを見ると「御家を滅ぼした典型的なボンボン」のようにも見え、彼を愚将とする意見も少なくありません。しかしその一方、武田家が滅んだことは時代の宿命であり、そのような状況で勝頼はよく頑張ったとの評価も存在します。

 勝頼を擁護する意見でよく引き合いに出されるのは、父・信玄が陥落させられなかった高天神城の攻略に成功したことです。実際、その武勇に関してはすでに同時代において評価が高く、織田信長ですら最後まで勝頼のことを警戒していたとされています。

 また武田家が滅んだのは、勝頼のせいというより、父・信玄の生前の政策に原因があるとする声も少なくありません。たとえば外交面を見ると、信玄は上杉家と対抗するなかで、今川家に対する方針を巡って、同盟を結んでいた北条家と断交しています。また武田家の継承に関しても、信玄は息子の勝頼ではなく孫の信勝(1567~1582年)を後継に指名しており、勝頼はあくまで後見役とされていました。こうした継承に関する措置が、勝頼の武田家統制に影響を及ぼしたとも言われています。武田家滅亡の原因をすべて勝頼に押し付けるのは酷なのではないか、というわけです。

 一方、「それでもやはり致命的なミスが多い」などとする否定的な再評価もまた進んできています。

 たとえば、上杉家のお家騒動である「御館の乱」(おたてのらん、1578年)への対応がよく挙げられます。この時に勝頼は、北条家が支援する上杉景虎(1554~1579年)ではなく、上杉景勝(1556~1623年)を応援したことで、北条家との関係をより悪化させてしまいました。

 また1581年の織田・徳川連合軍による高天神城攻撃の際、援軍を送らず見殺しにしたことも批判の対象となっています。武田所領内では、この時の対応を見て勝頼に見切りをつけ、織田・徳川に造反する勢力が相次いだとされ、武田家の滅亡を早めたと言われます。

 以上のように、武田勝頼に関しては愚将だという意見が出れば擁護意見が出て、名将だと言われるとまた否定的意見が出てくるなど、その評価は株価のごとく乱高下気味です。筆者はいろいろな戦国武将の評価を見てきましたが、ここまで評価が揺れる武将はいないのではないでしょうか。ある意味、評価の難しさ、不安定さにかけては父・信玄を超えていると言ってもいいかもしれません。