「二心殿」と呼ばれたラスト将軍
徳川慶喜(1837~1913年)も、乃木希典と並んで、名将か愚将かについて激しい議論が続く人物の1人でしょう。
最も議論の的になるのは、幕末期において薩長連合と戦端が開いた「鳥羽・伏見の戦い」(1868年1月)の後における決断です。
幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れると、いったん大阪に引き下がります。ただし兵力や軍備には余力がありましたので、まだ徳川家に従う勢力も少なくありませんでした。そのため幕府軍内では、「態勢を整えて、いざ再戦」という機運が盛り上がっていました。ところが徳川慶喜は大半の味方を置き去りにして、あっさりと海路で江戸へ引き上げてしまったのです。
この時の徳川慶喜の行為について、一般的には味方を見捨てるような敵前逃亡だったという否定的な評価が下されています。その一方、日本の将来を見据え、幕府と薩長の正面衝突を回避するための英断だったとする肯定的な意見も目にします。どちらにしろ、梯子を外された幕臣にとってはたまったものではなかったでしょうが。
慶喜の決断について今に至るまで議論が続くのは、当の慶喜自身がどのような考えで決断に至ったのかをはっきり語らなかったためでしょう。
この時に限らず、慶喜は本音を隠すだけでなく、本音とは逆の発言をして行動することが多い人物であったようです。言うことと実際にやることが違う、そしてすぐに態度を変えるため、周囲から「二心殿(ふたごころどの)」というあだ名を付けられていたという逸話まであります。
結局、どういう考えで大阪から江戸へ引き上げたのか、本心が見えないため、慶喜の評価はきわめて困難になっています。なにか新しい史料が発見されるまで、彼の評価をめぐる議論は続くことでしょう。
評価の振れ幅が大きい名将の息子
最後に「評価が定まらない」というよりも「評価の振れ幅が非常に大きい」人物として、戦国時代の名将こと武田信玄の息子、武田勝頼(1546~1582年)の名を挙げたいと思います。