えひめ丸の事故現場で被害者の遺族と共に死者の冥福を祈る森喜朗首相(当時、2001年3月10日、写真:AP/アフロ)

「森会長発言」の余波が収まりません。

 私の連載にすら影響は及び、先週土曜公開の前回稿が水曜になってもトップビューでランクインし、せっかく入稿した遠隔学習の別原稿はちっともビューが伸びないといったあおりを受けてます。

「森会長」自身の「謝罪」については、日光猿軍団との比較対照に基づく考察を前回付しましたが、高齢の政治家が地雷を踏み続ける現象は収まらず、さらに事態を損ねています。

 とりわけ最低最悪だったのは、二階俊博・自民党幹事長の「問題ない」に続いて、これまた言わなきゃよかったのに「ボランティアがやめたら、また募集すればよい」という救いようのない暴言が飛び出しました。

 またぞろ大量の東京五輪ボランティアが「やってられるか!」と、東京オリンピックに見切りをつけている。

 先ほど確認した報道では97人の辞退者とのことですが、そこで収まりはつかないでしょう。

 先に本稿の結論を記しておきます。「森発言」は収拾がつかず、国際的に責任を取らされることになるでしょう。

 なぜ?

 それは、爺さん連中のしまりが緩くなった「ホンネ」漏洩はもとより、その後の「謝罪」が国際社会に通用するマナーになっていないからです。

 日本国内の、目配せや鼻薬が効く範囲内だけで通用する、一種の符丁でしかない。では「国際社会で通じる、普通の謝罪」とはどういうものか?

 それを、2001年2月10日、米国ハワイ州オアフ島沖で発生した「えひめ丸」事故から20年目の慰霊式典と対照して考えてみます。