落合芳幾『太平記拾遺四十六』より太田三楽齋(部分) 東京都立図書館

(乃至 政彦:歴史家)

川中島合戦が終了した翌月、武田信玄と北条氏康が進軍したとの知らせを受けた上杉謙信は、関東への越山を再開。関東諸士は北条軍の凄まじい反攻に動揺していた。氏康の狙い通りになれば、政虎と関東は分断してしまう。武蔵で守りの要となるのは、太田資正の動きであった。(JBpress)

越山した上杉政虎の動向

 武田信玄が西上野に、北条氏康が武蔵松山城に進軍したとの知らせを受けた上杉政虎は、永禄4年(1561)半ば過ぎ頃から、関東へ越山を再開する。川中島合戦の翌月のことであった。

 関東諸士は北条軍の凄まじい反攻に動揺していた。氏康が松山城と睨み合っている間に、息子の氏政らが下野の唐沢山城に近陣して降伏させれば、西上野に出た武田信玄とともに、政虎と関東の分断が可能になる。

 このためだろう。唐沢山城主・佐野昌綱は離反を疑われ、新たに擁立された古河城の新公方・足利藤氏もまた逃亡を企てている様子であった。松山城と対峙する氏康の姿は、それほど厳然として見えたに違いない。氏康の狙い通りになれば、政虎と関東は分断してしまう。

 武蔵で守りの要となるのは、太田資正の動きであった。

凄惨たる武州大乱

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 9月中、資正は北条軍相手に、松山城南東の長瀬(埼玉県入間郡毛呂山町)で合戦した。その後氏康は長瀬から北東に進み、松山城の南側にある小代(しょうだい/同県東松山市正代)と高坂(たかさか/同市高坂)に布陣する。滞在は100日にも及んだという(『松橋血脈裏文書』)。

 氏康は反対派の声を抑えて武蔵へ乱入すると、即座に三田氏を滅ぼし、藤田氏を降伏させたので、かなり熱を入れて侵攻したものと思われる。

 ここで、太田資正は徹底的に抵抗した。

 松山城には資正の主君・上杉憲勝がいた。そこで資正は夜襲を仕掛けるなどして、氏康の妨害に奔走した。この長い抗争により、武蔵24郡のうち15郡の家屋や寺社が焼き払われ、永禄11年(1568)まで再興されなかったという。前代未聞の凄惨さであった。氏康は、かつてないほどの怒りようを見せたのである。

 だが、資正は民衆の生活が脅かされようとも、刀を折るわけにはいかない。ここでかれが奮闘しなければ、政虎たちと組んで一変させた関東の情勢が、すべて虚しいものとなってしまう。

 この頃、上野の厩橋城に着陣した政虎は迷っていたようだ。武蔵では松山城の受難があり、かたや下野では佐野昌綱の離反、その先の下総では公方の逃亡が危ぶまれていた。さらに武田信玄が西上野に進出している。どこから手をつけるべきか判断の難しい状況にあったのだ。