キッチン南海に通い始めたのは25歳の頃で、神田駿河台下にあった小さな洋書輸入会社に入ってからである。20年ほど前、若い編集者に「この通りにあるキッチン南海って知ってる? そこのカツカレーはまあうまいよ! 世界一だ」と薦めたことがある。次に会ったとき、かれは「おいしかったが、世界一だとは思わない」といっていた。可愛くない子だが、それはしかたがない。味覚には絶対普遍の基準がないからである。

Richard, enjoy my life! - カツカレー | カツカレー 700円 東京神保町 キッチン南海 神保町店 | Richard, enjoy my life! | Flickr, CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=51318777による

 キッチン南海のカツカレーは世界一と言えるが、いままで食べたカレーのなかで一番うまかったのは、およそ50年前、京王線の新宿駅構内にあった立ち食いのカレー店C&Cのビーフカレーである。大きくカットされた玉ねぎがトロトロだった。いまでも同じ場所にその店がある。1968年創業の店で、「毎日食べても飽きない」といわれているようだ。最近一度入ってみたことがあるが全然別物だった。50年という時間は長い。

 日本中の大学町、企業町にはそれぞれ忘れがたい人気名物店がいくつもあることだろう。街の印象はその町の飲食店とともにある。わたしの場合、大学町も企業町も神田(お茶の水)だった。20歳から60歳までの40年間を神田で過ごした。いまだに神田が東京で一番落ち着く場所である。

時代を経て「カレー激戦区の街」に

 神田は古書店の街と言われたが、その後楽器店の街、スキー店の街になり、そして今やカレー激戦区の街として有名になった。およそ400店のカレー店が林立し、わたしはほとんど興味がないけれど、毎年神田カレーグランプリが開催されるほどである。

 神保町界隈で行ったことがあるカレー店は、ボンディ、共栄堂、エチオピア、まんてんくらいである。いずれもおいしいカレーだとは思うが、わたしにとってはキッチン南海の1位は不動である。文豪とか名優が愛した絶品〇〇とかいっても、なんの保証にもならない。壁一面に有名人のサインが貼ってあっても意味はない。

 以前、神田駿台下に「Aパン」というパン屋が3店あった。ランチ時には近所のOLに大人気で混みあっていたのだが、現在は1店もなくなった。なぜ閉店したのかわからない。わたしにとってカレーパンは、その「Aパン」のものがいまでも一番である。

 カレーパンはカレーパンでこれまたマニアがいる。石坂浩二のカレーパン好きは有名だが、「Aパン」のカレーパンはどこに出しても負けないと思う。いまさらこんなことを言っても仕方ないのだが。

まさに閉店の日、60~70人が並んでいた

 キッチン南海のちょうど閉店の日の午後1時ごろ、行ってみた。ふだんでもつねに15人ほど並んでいるのだが、さすがにこのときは60~70人ほどが並んでいたのであっさりあきらめた。

 残念ながらカツカレーは食べられなかったのだが、じつは「もし大行列なら食べられなくてもいいもんね」と心は余裕だったのである。