新型コロナウイルスの影響で延期が発表された「十三代目市川團十郎白猿襲名披露」公演。初代から十二代まで長い歴史をもつ「市川團十郎」はどれほどの重みのある名跡(みょうせき)なのか。「勧進帳」の初演者であり「歌舞伎十八番」の制定者である七代目の、波乱に富んだ生涯に迫る。(JBpress)
(※)本稿は『市川團十郎代々』(服部幸雄著、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。
さまざまな芸術の分野の中で、演劇は生身の役者の肉体を媒体として創造される点にその特色があることは、あらためて言うまでもない。このことは古今東西を問わず、あらゆる演劇に共通に言い得るところである。
しかし、歌舞伎という日本の伝統演劇にとって、この傾向は格別に顕著だった。歌舞伎の場合、とくに「役者中心の演劇」とか、「肉体で戯曲を書いていく」といった性格が強調されることのあるのは、それが西欧の近代演劇と対比した時に際立って見える特色だからである。
歌舞伎にとって、個性の豊かな役者の魅力は、ほとんど絶対的なものである。天賦の容姿、才能、個性的な芸風などの上に、本人の修行の努力によって培われた技芸、親や師匠から確実に伝承された型や芸、それぞれの役者の個性が舞台上でぶつかり合い、せめぎ合って、歌舞伎は支えられている。
そして舞台の上で燃焼しつくすその個性的な芸は、やがて子どもや弟子たちの肉体に受け継がれ、次の時代への技芸の伝承が行われる。
元禄歌舞伎は歌舞伎の歴史の出発点である。むろん歌舞伎はそれより半世紀以上も以前に生まれていたのだが、後世の歌舞伎の基礎がほぼ固まったのが元禄時代であり、これを第一次完成期と考えていい。
元禄歌舞伎の時代からおよそ三百年を隔てたこんにちまで、江戸(東京)歌舞伎の中で常に特別な地位を占め、最も大きく重い名前とランク付けされてきたのが「市川團十郎」の名跡(みょうせき)であった。
元禄歌舞伎の代表的名優であった初代(元祖)から、十二代目に至るまで、12人の「市川團十郎」が、江戸(東京)の庶民文化の歴史の中で、それぞれの時代に花を咲かせつづけてきた。