2月12日に行われた集団礼拝を通じ300名以上の感染者を出したキリスト教系の教会は、いま韓国国内で国民から「このような状況でなぜ閉鎖された空間で集団宗教行事を開催したのか」という非難とともに、激しいバッシングに晒されている。それに対して彼らは「我々は最大の被害者」だと声明を出したが、その言い分にも一理あると思われる部分がある。集団行事を延期したりキャンセルしたりせずに、むしろ実行するよう勧告したのは他ならぬ韓国政府だからだ。その教会の信者の中にたまたま感染者がいたために、意図せずに感染が広がってしまっただけであって、他の教会も平常時と変わらず集団行事を執り行い、一般の国民たちも特に危険を感じることもなく生活していたのだ。
つまりは、政府の「自画自賛」が、国民の状況判断を完全に誤らせてしまったのだ。
災い呼ぶ朴槿惠政権に対する過剰な意識
2月20日を過ぎたころから韓国では感染者数と死亡者数が急増し始めたが、そうした事態に直面すると、大統領からも与党の誰からも「MERSの時よりマシ」や「前政権とは違う」という話を聞くことはすっかり無くなった。死亡者数こそまだ少ないが、感染者数でみると明らかにMERSの時よりも悪い状況であるからだ。政権の支持者たちも初期にはMERSの時と比較し、現政権を称賛していたが、彼らもまた、いつしかMERSに言及することをやめた。比較すればするほど現政権に不利に働くことが分かっているのだ。
どんな政権であれ災難に対する対応が完璧であることなどありえない。それゆえに、政権は災難が起こってしまったときには、ある程度の非難や責任論から逃れることはできない。だが、文在寅政権は世論からの批判を恐れ、朴槿惠政権を意識しすぎるあまり、早計な楽観論を繰り返すことで国民に誤ったメッセージを送ってしまった。その判断ミスが、国民の生命を危険にさらし、世論を悪化させるという最悪の結果として跳ね返ってきてしまった。
文政権の朴槿惠政権に対する「意識過剰」は何に由来するのだろうか? ひとつ、思い当たるものがある。現政権は通常の政権交代ではなく、弾劾という非常手段によって政権を握った。その「後ろめたさ」を文政権のメンバーは心の中のどこかでまだ引きずっているのではないだろうか。