
猟銃でシカやイノシシを殺して食べることに対して、著者はどんな考えを持っているのだろう。読んでいると意外な言葉が見られた。
<この話題でよく聞く「命に感謝」という言葉をわたしは極力使わないようにしている。感謝という言葉で安易に答えが出たかのようにまとめたくない>
これは、動物はがむしゃらに生きているのであり、他の動物を食べるときに感謝することはないという考えによるものだという。その一方で、命の途絶えた動物には手を合わせる。そして、この二面性を「うまく整理できていない」と述べる。解釈するに、これは野性に生きる動物としての成分と、理性を持つ人間としての成分と、そのどちらもがひとつの体に備わっているからこその感覚ではないか。
「山の一部でありたい」という願い
「山」はそれ自体がひとつの生きものなのだという見方を、著者は伝える。
ある日、山中でシカの死体を見つけた。ところが2日後、同じ場所に行くと、その死体はすでに皮の切れ端や、肉が少しこびりついただけの大腿骨と化していた。カラスが肉をついばみ、他の獣が死体の大部分を運び去ったのだろう。「山による消化」が絶えず起きているのだ。
そんな「山」の中に入っていく著者も「山の一部でありたい」という願いを告白する。他の人とのやりとりがない単独忍び猟に惹かれたのも、この願いと関係しているのではないか。森林と同化するように山に忍び、山に棲むシカやイノシシたちをひたすら待ち伏せ、そして捕食者となる。その境地に達するまでは「むしろほど遠い。わかっている」と内省するが、自然体で山に通うようになっていく著者の様子から、山の一部として溶け込んでいったことは十分に伝わってくる。
狩猟、とりわけ単独忍び猟という、山での濃密な過ごし方を通して、人間は「山の一部」になることも目指すことも、その境地に近づくこともできるのだ。ひとつのことに魅了された人間の生き方を示してくれた。