その原因は、過剰流動性だった。日銀は1971年からマネタリーベースを40%以上増やして物価を10%近く上昇させており、これは「ニクソン・ショック」後の円高を抑えるための「調整インフレ」だった。つまり狂乱物価の主犯はOPECではなく、日銀だったのだ。
今の日本の過剰流動性は、1973年をはるかに上回る。このように経済が脆弱になっているときは、小さな供給ショックが経済全体に大きな影響をもたらす「バタフライ効果」があるのだ。
脱石油戦略を民主党政権がぶち壊した
石油危機を教訓として、通産省は中東に依存したエネルギー供給からの脱却を図った。「省エネ」という日本語が生まれ、エネルギー節約型技術の開発が進んだ。「サンシャイン計画」など再生可能エネルギーの研究開発も行われたが、当時はまだ実用化の段階ではなかった。1970年代に実用化していた最大の非化石電源は原子力だった。
この図は戦後の1次エネルギー供給の推移だが、1973年には78%を占めていた石油の比重が、2010年には40%まで下がった。それに代わって増えたのが原子力と水力と天然ガスだ。ただ水力はもう立地に限界があり、天然ガスの供給源も中東に片寄っているので、原油価格が上がると天然ガスの価格も上がる。中東依存度を抑えるには石炭も必要だ。
しかしこの「脱石油」戦略は、2011年の東日本大震災で挫折した。民主党政権が法的根拠なく全国の原発を停止したため、原子力の比重は一挙に低下した。その後やっと9基が再稼働したが、それでも1次エネルギー供給に占める比重は2%しかなく、石油依存度は42%に上がり、自給率は10%以下になった。
1970年代から自民党政権が進めてきた脱石油戦略をつぶした民主党政権が打ち出したのは、高価な固定価格買い取り制度による再生可能エネルギーの支援だった。これによって電気料金は1.5倍に上がり、中国の3倍になった。
それでも再エネ(水力を除く)は1次エネルギーの5%で、電力以外のエネルギー源にはならない。電力は1次エネルギーの25%なので、たとえ電源が再エネ100%になっても化石燃料はなくせないのだ。