今年、引退を表明した上原浩治の新刊『OVER 結果と向き合う勇気』が版を重ねている。日米通算21年ちかくを戦い続けた男の原点。それが浪人を経た大学時代だ。新刊に綴られた当時の思いを紹介する。
高校野球の最後に訪れた転機
プロ野球選手を意識したのは大学に入ってからだった。教師を目指して入った大阪体育大学で、僕は大きく成長した。
大阪に生まれ、兄の背中を追って小学校から野球を始めたが、中学には野球部がなく陸上部に入った。その間も野球を続け、東海大学付属仰星高等学校(現・東海大学付属大阪仰星高等学校)に入学。野球部に入部した。強豪校の部類には入ると思うが、甲子園に出たことはない高校。そこで3年間、補欠の外野手兼控え投手だった。
最上級生のときのエースが侍ジャパンの投手コーチである建山義紀だったから(建山とはテキサス・レンジャースでもチームメイトになった)彼を中心としたレギュラーたちに、「なんとか俺を甲子園に連れて行ってくれ」とお願いをするような立場だ。
肩だけは強かったと思う。それでもまったく自信はなく、走り込みが嫌でピッチャーをやりたくないと思っていた。高校で野球を辞めるつもりだった。
それが変わったのが、高校3年生の夏である。
最後の夏、甲子園を目指した戦いの中、強豪校との対戦のなかで、建山が迎えたピンチで登板し抑えることができ、チームも勝った。登板は2試合だけ。
公式戦の記録としては6回1/3。
たったそれだけの登板だったけれど、マウンドへ上がることに楽しみを覚えた。
もう少し、ピッチャーをやってみたい。
大学や社会人から声が掛かるようなピッチャーではなかったから、受験をして4年間野球をまっとうしてみよう。
これがひとつのターニングポイントだった。