ローマ教皇、ダライ・ラマの大きな影響力
天皇の影響力は、現在では日本列島のみに範囲が限定されているが、かつては大日本帝国の全域に及んでいた。一般的に宗教的権威と見なされることはないが、神を祀り、祈る存在としての性格、言い換えれば祭司としての性格は、平成時代に神事の一部が公開されたことで日本国民も知るようになってきた。天皇本来の役割としては、こちらのほうが重要である。
ローマ教皇は、元首としてはローマ市内の小国バチカン市国のみだが、かつては大土地所有者であった。精神的指導者であるだけでなく、領主でもあった。1861年のイタリア統一によって教皇領が接収されたが、ムッソリーニ時代の1929年にようやくラテラノ条約によってバチカン市国の独立を実現し、現在に至っている。
宗教的権威としては全世界のカトリック信徒にとっての精神的指導者であり、しかも国際政治のプレイヤーとしてしての存在感も大きい。ただし、本家本元の西欧ではカトリックが衰退し、南米やアジア・アフリカのほうが活発である。このような状況を反映して、今回初めて南米のアルゼンチンからの教皇誕生となった。ただし、現時点ではまだ白人であり、しかもイタリア系移民の出身者である。
ダライ・ラマ法王は、チベットだけでなく、モンゴルやシベリア(ロシア)まで中央アジアの広い範囲にわたって精神的指導者としての影響力を及ぼしている。チベットが中国共産党に制圧されてインドに脱出して以降は、チベット仏教が全世界に広がることになり、それにともなってダライ・ラマの影響力も世界的なものとなった。とくに米国や欧州、また日本でも影響力は大きい。もちろん、この状態は現在のダライ・ラマ14世自身のキャラクターによるところが大きい。
とはいえ、現在の影響力が次代のダライ・ラマのもとにおいても続いていくかどうかは未知数だ。いかなる人物が継承することになるか、現時点ではまったくわからないからだ。のちほど取り上げるが、ダライ・ラマの継承は天皇のように世襲でもないし、ローマ教皇のように選挙によるわけではない。きわめて特異な方法によって、その地位は継承されてきたのである。
古代から権威のみの存在だった天皇
宗教的な権威の担い手ではあっても、実際の政治権力を握っているかどうかは別の問題だ。言い換えれば、権力と権威をともに併せ持っているかということである。
まずは天皇について見ておこう。
天皇は、すでに古代において、摂関政治のもと世俗の権力から遠ざけられ、権威のみの存在となっていた。この位置づけに抵抗しようとした後醍醐天皇のような人物も現れたが、結局のところ失敗に終わっている。室町時代の末期の戦国時代には、戦乱や窮乏による予算不足のため、200年以上にわたって大嘗祭が挙行できなかったこともある。
徳川幕府成立以降の近世においても、天皇の権限は形式的に征夷大将軍を任命する存在にとどまり、世俗の権力をもつことはなかった。
天皇の権威を復活させようとしたのは、江戸時代後期の光格天皇からである。光格天皇は、現在の皇室の直接の先祖にあたる。明治憲法においては「立憲君主制」で「神聖にして不可侵」とされたが、実際の権力からは遠ざけられており、この点については近代以前とは変わりはなかった。あくまでも権威としてのみ存在し続けてきたといっていいだろう。ちなみに、現在でもタイ国王は「神聖にして不可侵」と憲法に明記されている。
ローマ教皇については、すでに述べてきたように、精神的指導者としての権威だけでなく、巨大官僚組織のトップとしての権力をもっている。バチカン市国という世俗の主権国家においても元首である。中世の全盛時代と比べたら、比較しようのないほど大幅に権限は縮小しているが、影響力の範囲はむしろ全世界に拡大している。中世においてはユーラシア大陸の西の辺境に影響力は限定されていたが、16世紀の第1次グローバリゼーションの波に乗って布教した結果、全世界的な影響力をもつに至っている。
「チベット蜂起」(1959年)によってインドへの亡命を余儀なくされたダライ・ラマ14世とチベット亡命政府であるが、ダライ・ラマはチベット亡命政府の政治代表から引退を表明し、みずから権力は放棄し、精神的指導者としてのみとどまることに決めている。チベット亡命政府は、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけている。