燃料代がすべて無料時代のソ連時代に建てられた研究所の建物は前面ガラス張りで、靴下を何重に重ねて穿いても、厚い毛布にくるまっても、定期的に悪寒と頭痛に見舞われた。
しかし、何よりつらかったのは電気がいつ来るか、そして停電するか、誰にも予測がつかなかったことにあった。
市民が最も不満を持っていたのは、まさにこの電力の「いい加減さ」であった。2003年のバラ革命など、ある意味では「停電革命」と言えたかもしれない。もちろんそれだけではないが、電力がないことほど市民生活を混乱させていたことはなかった。
当時、グルジアからヨーロッパに出かけると、お土産に喜ばれたのは「マグライト」という携帯電灯であった。様々な種類があるが、そんなことに詳しくなるとは留学するときは思ってもみなかった。
自分用にも1個買い、もちろんどこに行くにも必ず携帯した。マグライトなしでは夜間でこぼこ道を歩くことはもちろん、昼間も建物の中でトイレに行くこともできなかった。今も留学の記念にとってある。
風評の怖さ
もちろん当時のグルジアでも、地区ごとに「計画停電」は発表されていた。しかし、毎晩のニュースの冒頭は決まって発電所の不具合であった。今でも「伝説」のメツフレブロック(グルジア語で第9発電所)は、そのモンタージュ写真とともに悪夢の中に出てきそうである。
余談だが、去年もスイスのチューリヒのグルジア人宅でこの話題で大いに盛り上がった。当時を覚えているグルジア人は、第9発電所と聞くと頭より先にまず皆体をよじらせる。
当時、トビリシの電力供給に責任を持っていたのは、米国の会社AESが買収して設立されたAESテラシであったが、混乱を重ねていた。
米国人の若いトップの不遜な態度は、それ自体が格好のニュースネタにもなっていた。ちなみにその迷走ぶりは Paul Devlin が「Power Trip」の題で映画化もしている。
この時のグルジアは、いわば市民生活が不正常な状態が数年も続いた。冬が近づくと電力の供給が不安定になるし、市民も寒くて暴動を起こすことが年中行事となっていた。シェワルナゼ政権はトルコに電力を売っていると公然と噂された。
