遊牧民がいつごろから騎乗の技術を身に着けるようになったのかは不明ですが、アジアや地中海で人が馬に乗るようになったのは、前10世紀頃のことと言われています。さらに、草原地帯で乗馬が開始されるのは、前9世紀〜前8世紀頃のことであったというのが、現在の学説になっています。

 というのも、前9世紀中頃、また世界的な気候変動が生じたからです。現代社会の砂漠化とは、まったく反対の現象ですが、それまで半砂漠だった地域が草原化するようになります。こうして草原地帯が増え、遊牧民が騎乗するようになったとされています。

「最初の遊牧民」スキタイ人

 現在の歴史研究では、「最初の遊牧民はスキタイ人」という説が有力です。スキタイ人は、前7世紀頃から前3世紀頃にかけ、パミール高原西部からヴォルガ川までの黒海北岸に及ぶ草原地帯で活動したといわれ、最盛期は前6~前4世紀であったとされます。

 馬を自在に操り、集団で家畜を追う遊牧民は、それだけで大きな人事力を有することになります。

 スキタイ人はイラン系民族に属すると考えられており、西アジアのヒッタイト人などの諸民族から鉄器製造の技術を導入し、農具や武具に利用していました。彼らはそれを東方に伝える役割を果たしたのです。

「歴史の父」と呼ばれる古代ギリシア人のヘロドトスは、その著書『歴史』の中で、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世と対峙した相手として、スキタイ人について言及しています。

 ペルシア帝国のダレイオスは、馬車を使って軍隊を迅速に移動できるよう、石畳で舗装した「王の道」を領土内に整備しましたが、北方の脅威となっていたスキタイ人討伐のために大軍を率いてボスポラス海峡を渡って遠征した際には、遊牧騎馬民族であるスキタイ人の機動力に歯が立たず、大敗させられてしまいます。騎乗技術に秀で、さらに高度な騎射技術を身に着けていたスキタイ人は、非常に高い軍事力を備えていました。

 スキタイ人は、前6世紀以降には、黒海の周辺、南ロシア、北カフカスの草原を中心として強大な王国を形成したばかりか、アケメネス朝のダレイオス3世やマケドニアのアレクサンドロス3世とも戦いました。このように勇敢で強かったスキタイ人でしたが、3世紀にゲルマン人の一派で、黒海北岸に居住していた東ゴート人に滅ぼされたと言われています。

漢を「属国」にした匈奴

 スキタイ人に続いた有名な遊牧民として、モンゴル平原にあった匈奴がいます。彼らもまた強大な軍事力を持った集団でした。

 匈奴が明確な形で歴史に登場するのは、始皇帝が中国を統一した時代だったようです。中国の統一と同時期に、匈奴も複数の部族が統一され、強力な国家になっていったのです。この脅威を振り払うため、始皇帝は、将軍である蒙恬を派遣し、匈奴をオルドス地方(現在の中国・内モンゴル自治区南部)から追い払い、さらに彼らの南下を防ぐために万里の長城を建設したのです。

 こうした秦の対策もあり、匈奴の勢力は一時的に衰えます。しかし、冒頓単于(単于=匈奴の王。在位前209〜前174年)の時代になると、匈奴は急激に強大化し、復活してきます。

 冒頓はまず、東の遊牧民集団・東胡を滅ぼし、続け様に西の遊牧民集団・月氏を敗走させるなどして、瞬く間に広大な帝国を形成しました。その本拠はモンゴル草原の中央部にあり、それより東を左、西を右とし、それぞれ左賢王・右賢王などを置いて分割統治させました。初めてモンゴル平原を統一した匈奴には、30万人以上の騎兵兵力がいたとされています。

 冒頓は、前200年、漢の高祖・劉邦の軍隊を破ります。漢は、始祖である劉邦が冒頓に敗れてから50年ほど、匈奴の属国でした。漢は公主(皇帝の娘)を匈奴の単于に妻として差し出し、しかも、毎年、絹、まわた、酒、米などを贈りものをする関係になりました。漢にとっては屈辱的な関係だったのです。

【地図】前漢時代の匈奴の領土 ©アクアスピリット
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