このような関係を逆転させようと試みたのが武帝(在位前141〜前87年)でした。

 武帝は、「匈奴討伐」のために、武将である衛青、霍去病(かくきょへい)らの軍を派遣し、さらに張騫の軍で挟撃させるなど、度重なる遠征をしたのです。次第に形勢が怪しくなった匈奴は、烏維単于(うい ぜんう:在位前114〜前105年)の治世下になると、漢から人質を要求されるまでに衰退します。その後、分裂と統一を繰り返すなどして、歴史から姿を消してしまいました。

ゲルマン人を「大移動」に駆り立てた遊牧民

 表舞台から姿を消した匈奴ですが、実はその一部が後に「フン族」と呼ばれる人々になったのではないかという説もあります。フン族とは、北アジアの遊牧騎馬民族で、その西進がゲルマン人の大移動を引き起こしたとされる人々です。確定した学説ではありませんが、アジアの遊牧騎馬民族が、ヨーロッパを揺るがす大移動のきっかけを作ったのは間違いないようです。

 ゲルマン人の大移動は、大きく見て2回に分けられます。

 一度目は、375年の西ゴート人のドナウ川越境から、568年の北イタリアでのランゴバルド王国の建国までです。二度目は、8世紀にから11世紀まで続いたノルマン人の移動を指します。ただし、一般には、一度目だけを指して、「ゲルマン人の大移動」といいます。

 一度目の大移動の中心であったゴート人は、もともとバルト海南部に住んでいたゲルマン人の一部なのですが、やがて南下し、黒海沿岸部に移り住む過程で東西ゴート人へと分かれました。

 このうち東ゴート人は、すでに述べましたようにスキタイ人を滅ぼした人々ですが、今度は同じ遊牧民であるフン人によって征服されることになりました。

 この様子を見てフン族を脅威に感じた西ゴート人は、ドナウ川を越えてローマ帝国領に侵入していきます。これが一度目の「ゲルマン人の大移動」となっていくのです。

フン族を描いた19世紀の歴史画(ヨーハン・ネーポムク・ガイガー画。Wikipediaより)

 さて、ゲルマン人の大移動の直接のきっかけをつくった北アジアの遊牧騎馬民族であるフン族は、もともと中央アジアのステップ地帯に住んでいたと考えられています。2世紀頃にバイカル湖方面から西方に移動を開始し、4世紀になって南ロシアのステップ地帯に入ったようです。最盛期にはその領土は、中央アジアのステップから現在のドイツにまで広がるという巨大な帝国を形成したのです。

 フン族は、アッティラ(406〜453年)の治世下で最盛期を迎えますが、451年のカタラウヌムの戦いで、西ローマ・西ゴートの連合軍に敗れます。翌452年にはイタリアに侵入しますが、自陣の中で疫病が流行しため撤退を余儀なくされます。その翌年、アッティラが病死すると、この強大な帝国は急速に衰退し、崩壊してしまいます。

 フン族の国家は、軍事力は非常に高いものがありましたが、統治機構は十分に発展していなかったと考えられます。アッティラという個人の強力なリーダーシップによって成り立っていたので、リーダーがいなくなった途端、あっけなく崩壊してしまったのです。これは、遊牧民のみならず、この当時の国家にしばしば見られたことでした。

 それはさておき、フン族に圧迫され大移動を余儀なくされたゲルマン人たちは、ヨーロッパのさまざまな地域に定住するようになります。たとえば、西ゴート人がイベリア半島、東ゴート人がイタリア、ブルグンド人が南西フランス、フランク人が北西フランス、アングロサクソン人がブリテン島に国家を立てました。ヴァンダル人はイベリア半島から北アフリカに入り、カルタゴの故地に建国しています。

 こうして見ると、大移動したゲルマン人たちによって現在のフランス、ドイツ、イタリア、イギリスの原型が作られたことが分かります。そのきっかけを作ったのは、遊牧騎馬民族のフン族でした。遊牧民の進攻があったからこそ、各地で民族や文化の交錯が起こり、そして現在のヨーロッパが形作られていったのです。

 ヨーロッパ史をみていく上で、さらには世界史を考えるときに遊牧民の役割を無視することはできないことは、ここからもお分かりいただけるでしょう。遊牧民が世界史をつくった時代があったのです。